湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

院内銀山

2011-10-19

どうも こんにちは
先週、とあるくじ引きで日本酒を当てた
湯沢市ジオパーク推進協議会事務局のトビウオです

普段はあまり日本酒は飲まないのですが、
自分が当てたものとなると「これは飲んでおかなくちゃ」という気持ちになります

私は少し飲んで、あとは家族にあげようと思います


さて、今日は院内銀山についてお話しします

意外にもまだご紹介していなかったんですよね

院内銀山は、院内駅の西方約4.2kmの国道108号から南西に流れる
院内川の谷沿いにあります

銀山の発見から昭和29年の閉山まで、約350年の歴史を誇る我が国有数の銀山でした

その発見は、慶長元年(1596)の薄井七郎左衛門によるものとも、
慶長11年(1606)の村山宗兵衛によるものとも言われています

開発初期の盛況ぶりが、以下のように古文書に記されています

「諸国の者共集まり来たり」、
「当山の繁栄を聞きて、毎日毎日引きも切らず集る事夥しく
 …三味線太鼓つづみ笛の音鳴り止む隙もなかりけり」


文化4年(1807)頃からしだいに隆盛に向かい、
文化14年(1817)に秋田藩の直営となりました

天保年間(1830~1843)に最盛期を迎え、藩の財政を潤しました

最盛期には産出量日本一を誇りましたが、銀の産出量は急激に減退してしまいます

明治6年(1873)、経営権は藩から民間鉱業会社に渡り、
破産後は秋田県の仮官行となりました。

明治8年(1875)に工部省鉱山寮の所管となり、
ドイツ人技術者を招き鉱山の近代化を推進しました

明治17年(1884)に古河市兵衛に払い下げられ、設備の拡充が進められます

それにより鉱産量は増加の一途を辿り、
明治22年(1889)~明治38年(1905)に年間 27500kgに達しました

しかし、明治39年(1906)の坑内火災で坑夫102名が死亡するという決定的な打撃を受け、
鉱産量は激減してしまいます。

それ以降、銀本位制から金本位制への移行による銀暴落などで
銀山経営は厳しくなりました

大正10年(1921)以後、院内銀山は一時休山と再坑を繰り返し
わずかに金・銀鉱を採掘しましたが、昭和18年(1943)に金山整備のため縮小し、
昭和29年(1954)、鉱況が悪化したため全山休止しました

院内銀山には2度の最盛期がありました
(1833~1843の「天保の盛り山」と、1890~1900)

鉱山の繁栄期間は、ひとえに鉱脈の規模(埋蔵量の大きさ)と品質、
および価格に支配されます

鉱山の栄枯盛衰は、有限の地下資源の宿命だと言えそうです

院内銀山グラフ

だいぶ記事が長くなってしまいました

これから何回かに分けて、院内銀山に関する記事を書いていこうと思いますので
よろしくお願いします

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湯沢市ジオパーク推進協議会事務局

Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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