菅江真澄と歩く② 「突撃! 山田・松岡七不思議!」
2013-01-20
みなさま、こんにちは。
湯沢市ジオパーク推進協議会事務局のミレーです。
前回から始まりました「菅江真澄と行くジオツアー」、第二回はジオサイト「山田」から、松岡地区を取り上げたいと思います。
何やら仰々しいタイトルですが、このタイトルもまた菅江真澄を参考にしています。
先立って、絵図集「勝地臨毫」に描かれた松岡の風景をご覧ください。

のどかな田園風景の中、銀山が端っこに登場しています。
これこそがジオサイト案内書にも登場する、歴史に名を馳せた「松岡銀山」です。
「雪の出羽路 雄勝郡」にて、真澄は以下のように記しています。
今は院内銀山の支山ながら、そもそも此松岡山に白銀のかなづる見附たりしは應永の始めながら、
(今は院内銀山に付随する山となっているが、はじめにこの松岡山に銀の鉱脈を見つけたのは
應永(1397年~)の始めで、)
なからは絶たる事をりをりなりき。むかし能代銀と云ひしは今の山本郡八森の小久川山より産るを云ひ、
(採掘が中断することが時々あった。むかし能代銀とは今の山本郡八森の小久川山から産出するものをいい、)
湯澤銀というは雄勝郡此松岡よりいづるをこそいふなれ。
(湯澤銀とは雄勝郡のこの松岡山から産出するもののことをいうのである。)
院内銀山の影に隠れがちですが、松岡銀山もまた、「湯澤銀」と称される銀を生み出した名のある銀山でした。
さて、前置きが長くなりましたが、タイトルにある通りの紹介をしたいと思います。
菅江真澄が、わざわざひとつの項目を作ってまで紹介した「松岡七不思議」です!
○松岡七不測
○南蠻酒の垢離精進
○礫の七葉樹(とちのき)
○五月四日の夜の狐火
○直樹松とてまがり木なく赤松のみいとおおく群れたちて
○疫病いたらず
○藺草苗種事なし
○塞泉の大杉に鳥の巣くふ事なし
是を松岡の七奇と云ひならはせり。
……個々の内容について、詳しく紹介するのは遠慮させていただきますが(主としてミレーの古語読解能力の欠如に因る)、三番目の、「五月四日の夜の狐火」について、断片的ながら内容を見ていこうと思います。
五月四日の夜は松岡山の白山の山始の祭りにて五日の甘露祭りの試楽なれば、燈火いと多く人多に予籠せり、
(五月四日の夜は松岡山の白山の山始めの祭りで、五日の甘露祭りの前日であり、燈火がたいそう多く、
人も多く山に入っている、)
更け行く頃遠近に狐火の出て此麓に集る、是をきつねの松明といふ、此火多かるとしは秋田の実豊にのぼると
いへり。
(そして夜が更けていく頃、あちこちに狐火が現れてこのふもとに集まってくる。これをきつねの松明という。
この火が多く現れる年は、秋田は豊作になるという。)
(中略)
また五日の旦甘露降事年々しかり、この露も多かる年は稲の能くみのるといふ、甘露は吉瑞なるためしとて
(また五日には甘い水が降ることが毎年あり、これが多い年も豊作になるという。甘露(甘い水)はよいことの
前兆であるとして)
甘露祭りと云ひしが今はさる事いふ人もなく、麓に銀山いでてよりきつね火もむかしより多からぬなんと、
(甘露祭りといっていたのだが、今ではこういう話をする人間もいなくなり、ふもとに銀山ができてからは
狐火も昔より少なくなってしまった。)
又いにしへは山に寺々ありてにぎはひし処と八十翁の物語りせり。
(また、昔は山に多くの寺があってにぎわっていたと、八十になる老人が語った。)
松岡の狐火とはその年の農作物の良し悪しを占う瑞兆だったようです。
今日の我々と違い、200年前の時点ではまさに生きた真実として狐火が捉えられていたことが見えてきます。
そして、「よそ者」である菅江真澄もまた、この松岡七不思議・狐火を真と断じました。
以下の一文は、上に紹介した一文に続くものです。
狐火は真澄も見し事あるなり。
私も狐火を見たことがあるよ!
人間が生き続ける限り、物語もまた生き続けます。
本日のブログはミレーがお送りしました。
湯沢市ジオパーク推進協議会事務局のミレーです。
前回から始まりました「菅江真澄と行くジオツアー」、第二回はジオサイト「山田」から、松岡地区を取り上げたいと思います。
何やら仰々しいタイトルですが、このタイトルもまた菅江真澄を参考にしています。
先立って、絵図集「勝地臨毫」に描かれた松岡の風景をご覧ください。

のどかな田園風景の中、銀山が端っこに登場しています。
これこそがジオサイト案内書にも登場する、歴史に名を馳せた「松岡銀山」です。
「雪の出羽路 雄勝郡」にて、真澄は以下のように記しています。
今は院内銀山の支山ながら、そもそも此松岡山に白銀のかなづる見附たりしは應永の始めながら、
(今は院内銀山に付随する山となっているが、はじめにこの松岡山に銀の鉱脈を見つけたのは
應永(1397年~)の始めで、)
なからは絶たる事をりをりなりき。むかし能代銀と云ひしは今の山本郡八森の小久川山より産るを云ひ、
(採掘が中断することが時々あった。むかし能代銀とは今の山本郡八森の小久川山から産出するものをいい、)
湯澤銀というは雄勝郡此松岡よりいづるをこそいふなれ。
(湯澤銀とは雄勝郡のこの松岡山から産出するもののことをいうのである。)
院内銀山の影に隠れがちですが、松岡銀山もまた、「湯澤銀」と称される銀を生み出した名のある銀山でした。
さて、前置きが長くなりましたが、タイトルにある通りの紹介をしたいと思います。
菅江真澄が、わざわざひとつの項目を作ってまで紹介した「松岡七不思議」です!
○松岡七不測
○南蠻酒の垢離精進
○礫の七葉樹(とちのき)
○五月四日の夜の狐火
○直樹松とてまがり木なく赤松のみいとおおく群れたちて
○疫病いたらず
○藺草苗種事なし
○塞泉の大杉に鳥の巣くふ事なし
是を松岡の七奇と云ひならはせり。
……個々の内容について、詳しく紹介するのは遠慮させていただきますが(主としてミレーの古語読解能力の欠如に因る)、三番目の、「五月四日の夜の狐火」について、断片的ながら内容を見ていこうと思います。
五月四日の夜は松岡山の白山の山始の祭りにて五日の甘露祭りの試楽なれば、燈火いと多く人多に予籠せり、
(五月四日の夜は松岡山の白山の山始めの祭りで、五日の甘露祭りの前日であり、燈火がたいそう多く、
人も多く山に入っている、)
更け行く頃遠近に狐火の出て此麓に集る、是をきつねの松明といふ、此火多かるとしは秋田の実豊にのぼると
いへり。
(そして夜が更けていく頃、あちこちに狐火が現れてこのふもとに集まってくる。これをきつねの松明という。
この火が多く現れる年は、秋田は豊作になるという。)
(中略)
また五日の旦甘露降事年々しかり、この露も多かる年は稲の能くみのるといふ、甘露は吉瑞なるためしとて
(また五日には甘い水が降ることが毎年あり、これが多い年も豊作になるという。甘露(甘い水)はよいことの
前兆であるとして)
甘露祭りと云ひしが今はさる事いふ人もなく、麓に銀山いでてよりきつね火もむかしより多からぬなんと、
(甘露祭りといっていたのだが、今ではこういう話をする人間もいなくなり、ふもとに銀山ができてからは
狐火も昔より少なくなってしまった。)
又いにしへは山に寺々ありてにぎはひし処と八十翁の物語りせり。
(また、昔は山に多くの寺があってにぎわっていたと、八十になる老人が語った。)
松岡の狐火とはその年の農作物の良し悪しを占う瑞兆だったようです。
今日の我々と違い、200年前の時点ではまさに生きた真実として狐火が捉えられていたことが見えてきます。
そして、「よそ者」である菅江真澄もまた、この松岡七不思議・狐火を真と断じました。
以下の一文は、上に紹介した一文に続くものです。
狐火は真澄も見し事あるなり。
私も狐火を見たことがあるよ!
人間が生き続ける限り、物語もまた生き続けます。
本日のブログはミレーがお送りしました。