湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

院内銀山 西光寺跡のお墓の話

2014-09-11

先回までで、院内銀山記の中に書かれている、西光寺に関する記述のお話は終了しました。
今回からは、西光寺跡に残る御墓の話をいたします。
最初の話は、院内銀山の天保の盛り山の時に銀山の支配人として、院内銀山を日本一の産銀高にした功労者の山崎権六についてお話しいたします。
権六は天明2年(1782年)うまれで、文化4年(1807年)阿仁小沢銅山で小使に召し立てられ、文化十四年院内銀山直山になると院内に赴任。文政12年(1829年)には、院内銀山を日本一の産銀高に盛り上げ、『天保の盛り山』時代を築き上げた大功労者である。
養安の《日記》によれば、天保9年1月29日血を少し吐き、養安は友人の院内医師由利周達も呼んで診察してもらい、格別の症状のようにも見えなかったが、夜中便所で倒れてそのまま絶命した。57歳である。葬儀は2月8日『山崎権六殿葬式八つ過ぎに御座候。火葬松の木迄まかり越し候。御同人御内儀途中にて気を失いいたし候間、宿もとへ付き添いまかり帰り候』権六の死因は(よろけ)か?  お墓は西光寺にある。 現在は御幸抗からの道を登って左側に墓が見えて来るが、中央に二つ並んでいる墓が権六の墓である。
雄誉英山美清居士 (左面)に天保戊(つち)戌(いぬ)正月廿九日俗称山崎権六安政四丁巳星十二月十二日 
宋誉英美妙園大姉 (右面)に時安政五戊午星七月
 安政4年(1857年)養子修蔵が建て、同年12月22日死亡の妻の銘は翌年刻んだものと思われる。
隣の墓石は、常雅之碑 《夜にいりて再びしろし梅の花》 (常雅)は権六の俳号で、、碑は修蔵が建てたものであろう。
権六の娘に養子修蔵を迎えたが、そのむすめは天保6年に死亡している。
修蔵は天保3年(1832年)権六の養子になり、翌年長男勝定が生まれた。修蔵は慶応元年死亡。勝定も『気吹舎》(いぶきのや)(幕末の思想家平田篤胤の学問所)入門、自由民権運動にかかわった。(勝定の子孫は北海道にいる)勝定と修蔵娘婿玄左右(げんぞう・支配人高橋直作息子)の墓は、信翁院にある。
山崎権六の墓

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