湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を歩く 寄り道編パート5

2014-12-04

先回、国司仙吉を書きましたが、その時に桂小五郎のことが出てきたので、今回は、寄り道ついでに私の好きな桂小五郎について、ブログを書きます。
木戸 孝允(きど たかよし)・志士時代は桂小五郎(かつらこごろう) 天保4年(1833年)、現在の山口県萩市に萩藩医・和田昌景の長男として生まれる。七歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛)、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻り両親の元で成長した。
10代に入ってからは、藩主毛利敬親による親試で褒賞を受け、長州藩の若き俊英として注目され始める。
嘉永2年(1849年)、藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。桂小五郎はいわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかったが、その後も松陰に対し、門人の礼をとリ続けていたという。
 嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され、江戸に旅立つ。江戸では江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」の練兵館(斎藤弥九郎)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となる。藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務め、その間、剣豪の名を天下に轟かせた。その後、練兵館塾頭を務める傍ら、江戸で多くの志士たちと交流しながら、長州藩の尊攘派のリーダーへと成長。
文久3年(1863年)5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。長州藩は京において中央政界を牛耳る存在となっていたが、文久3年「八月十八日の政変」で京都から追放の憂き目に遭う。翌年、小五郎は再上洛し潜伏しつつも藩の失地回復に勤めた。
有名な池田屋事件では池田屋へ一番早く行ったが、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行っていたため、小五郎は運良く難を逃れた。(新選組が池田屋を襲撃したのは、小五郎が対馬藩邸に行っている間に起こった)
池田屋事件は、八月十八日の政変以来、挙兵を訴えていた長州藩の急進派を刺激する結果となり、禁門の変における武力上洛を引き起こしたが、惨敗。小五郎はその後も京に潜伏し情報収集に努めるが、同志からの依頼で帰郷する。
その後、坂本龍馬の斡旋で薩長同盟を締結。翌年の第二次征長戦にて幕府軍を退け、大政奉還を経て後、長州藩の復権に成功。薩長主導による武力倒幕を成し遂げ、新政府を樹立する。
新政府では総裁局顧問、外国事務係、参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画し、大久保らとともに版籍奉還の実現に尽力する。明治4年(1871)、西郷とともに参議となると、政府要職を薩長の人材で独占、廃藩置県を断行。
同年9月、岩倉使節団の副使として欧米に歴訪するなどするが、その後は、大久保による独裁体制の政局に不満を抱き、次第に政府中枢から遠ざかっていくようになる。長年の心労で心の病を患っていたようである。
明治10年、西南戦争の最中、駆けつけた大久保利通の手を握り締め、「西郷、いいかげんにせんか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去ったという。病没。享年45歳。
志士としても、長州藩のリーダーとして時代の先端に立って活動を続け、明治新政府においてもトップの一人として近代国家・日本の建設に大きな役割を果たした希有の存在、木戸孝允。墓所は、京都・霊山護国神社にあり、坂本龍馬や、中岡慎太郎など活動を共にした多くの志士たちとともに眠っている。
桂集合写真1
木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年(1870年)撮影。
桂 3
岩倉使節団。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
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Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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