湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 寄り道編パート5

2014-12-10

先回は、国司仙吉の寄り道編として、幕末の勤皇の志『桂小五郎』について書きましたが、
今回は、またまた寄り道して、国司仙吉が若い時に学んだ《松下村塾》について書きます。
《松下村塾》は多くの人が知っているように、幕末において長州藩の多くの若者が学んで、明治維新から明治新政府の中で大いに活躍した人達を輩出したとても有名な塾でした。

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。   

松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分からなっている。1842年(天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けた。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたった。1857年(安政4年)に藩校明倫館の塾頭を務めた吉田松陰がこれを引き継ぎ、1858年(安政5年)に松陰が野山獄に再投獄され廃止された。武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫館は士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん、武士に仕えながら卒(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・中間なども入学できなかったのと対照的であった。短期間しか存続しなかったが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出した。塾生名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。著名な門下生には、尊王攘夷、倒幕の全国志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、この人々の死んだ後を受けて藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。これら直門の高弟の衣鉢を継いで、末弟子の伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎らが、明治政府の最高指導者を担った。他の門下生には、萩の乱を起こした前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)らがいる。桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けている。井上馨はよく松下村塾の塾生と間違えられることが多いが、高杉・久坂らと関わりは深いものの松陰の教えを直接うけたことは無い。講師には松蔭のほかに富永有隣がいる。明治維新の後に復活し、1892年(明治25年)まで存続した。萩市の松陰神社の境内には、修復された当時の建物がある。
  (ウィキペヂアより)
写真は、現在の松下村塾です。内部の様子や授業の様子です。

松陰写真
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