湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 福島晩郎編

2015-01-03

先回は、福島晩郎が鉱山学を勉強して、生野鉱山、佐渡金山にて、働いたことを書いて終わりました。
今回は、福島晩郎がいよいよ、院内銀山に来て、ドイツ人技師らとともに近代化の基礎を築き、院内町にて、若くして亡くなった事や、晩郎の人となりを紹介いたします。
 福島晩郎いよいよ院内銀山にやって来る。
福島は、明治10年(1877年)3月工部省四等属として院内分局に移り、明治12年(1879年)5月に鉱山事務が阿仁から分離されて主任を勤めた。
山元には、ドイツ人器械師長バンサ、熔鉱師ロージング、工部技手牧相信らが加わって坑内外の近代化が進められた。
彼は、明治15年(1881年)6月19日銀山町の止宿先大内永太郎宅で逝去(せいきょ)する。夫人かね(力子1840~1902)の生年から推定して、亨年は40歳を越えていた。
福島は生野鉱山に勤務中、明治4年10月15日知事の解任と地租の改正を巡って、地元の住民が蜂起する事件に遭った。徒党を組んだ人民が鉱山支廰に放火する。彼は、主任の朝倉盛明を助けて帳簿類や官金を護った。
福島晩郎が他界して間もなく、彼が生野、院内に在任中に尽くした功績を称えて、工部省から祭祀料が届けられた。
晩郎の表

手元に斉藤誠一氏から届いた『福島晩郎の聞き書き』がある。そのなかから、彼の人物像を紹介させていただく。
《古老の話によれば福島氏は豪放磊落、誠に太っ腹な人で、酒宴が興に至れば大声を発してあたりを驚かせたりしたが平常は実に温厚篤実な気質で、常に部下をよく面倒見て愛し、特に労働者に対しては温情到らざるはなき人であり、人々の敬愛の的であった。》
この記載のうしろに、注釈として、「古老の話と書きましたが私の母方の祖父児玉晃貫は明治初年から工部省に出仕しました」とある。
児玉晃貫(1861~1916)は、地元上院内に生まれ、明治15年院内分局に入り、官営後も古河市兵衛が経営する役員として鉱山の発展に努めた。大正元年(1912年)に秋田県会議員に選ばれ、雄勝地方の産業・文化の進展と近代化に尽くした。
いま、銀山町の跡地には、鉱山の開発者村山宗兵衛が創建した正楽寺跡の山麓に、『故工部一等属福島晩郎之墓』が建っている。その脇に寄り添うように一基の墳墓ある。
正面  南無阿弥陀仏   山崎磯右衛門之墓
左側面 右 山崎磯右衛門儀  鉱山局福島晩郎被雇
                明治14年当銀山町来ル
  明治23年8月11日死
彼の経歴は定かでないが、福島晩郎の秘書役に当時の秋田県令石田英吉が派遣した人物と見做される。
明治18年(1885年)銀山が古河市兵衛に払い下げられた時、鉱主は、記念碑を主鈴坂下に建立して福島の功業を顕彰した。
なお、夫人は、晩郎に別れて20年後、明治35年6月3日東京高輪の三田台で逝き、重秀寺(港区白金二丁目)の墓域に眠っている。

 院内銀山 明治初期に活躍した人々 (会誌『院内銀山』第30号より)
 みゆき坑の官員達  福島晩郎と牧 相信  (吉田 國夫著)
次回は、福島晩郎のお孫さんが、書いたものが手に入ったので、それを紹介いたします。それでは、ごきげんようさようなら。今年も良い年でありますように、がんばりましょう。

正楽寺跡
この写真は現在の正楽寺跡です。荒れてしまって、行くことはできません。
正楽寺跡2
この写真の建物の後ろが崖になっていますが、この上に福島晩郎の墓があります。現在は行けません
福島晩郎の墓
右側の写真が福島晩郎の墓です。(渡部和夫氏の写真集より)左は門屋盛信(養安の孫)と妻秀子の墓
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Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
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