湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 福島晩郎編

2015-01-09

先回まで、院内銀山において、明治の近代化を推進した人達のお話を書いていますが、先回までは、私が一番の功労者だと思っている福島晩郎について、吉田國夫先生が書かれたものを案内しましたが、今回は福島晩郎のお孫さんが、『会誌 院内銀山 9号に』 《祖父福島晩郎について》という記事が載っていたので、それについて案内したいと思います。身内の方が書いたものなので、とても面白い部分などあり、ミラーマンも是非とも皆さんに読んでもらおうと案内致します。

  『祖父 福島晩郎について』  北九州市若松区 福島幸男

父福島幹造から聞いた話を記してみたいと思う。
 明治15年の夏、祖父晩郎が秋田県の院内銀山で、病没した時その家族は東京芝三田の二本榎にあった屋敷に住んでいた。
 晩郎の妻力子(天保11年6月5日生、明治35年6月3日没)長女トミ(明治4年12月9日生、大正12年9月1日没)二男幹造(明治9年10月2日生、昭和9年9月21日没)の三人家族であった。
 長男強太郎はすでに他界していた。家の敷地は壱千坪程で、その中にゆったりとした住居が建てられて居た。晩郎は奉行所から命令が出ると直に旅装を整え馬車か特別人力車に乗り、生野鉱山やその他の鉱山に出張して行った。その頃工部省では鉱山の初期開発の為、西洋の技師を雇用して居たので休日などには、チョコレートのほか珍しいケーキなどを持って来て家族達を喜ばせていた。晩郎は酒を好んで飲み家には人の出入りが多く、時には芸者たちを呼んでは客をもてなして居た。
 福島家の原籍は今の宮崎市にあり、本家に当たる晩郎の兄の家は明治維新以前からその地に住んでいた旧家で、明治10年(1877)西南戦争の際博愛社を創設し、官・賊両軍の別なく傷病者の治療につくした人で、後に日本赤十字社初代社長になった佐野常民(1822生、1903没)や同じ年に西郷隆盛とともに官軍に反抗した桐野利秋も、青年時代にはよくこの家に立ち寄ったという。宮崎市街を流れる大淀川は雨の時には、しばしば氾濫して渡し舟が止まり、住民は大変困って居た晩郎の父は(名は修齊号は橘南)私財をなげうって木橋をかけたと言われている。現在宮崎市のメインストリートを橘大通り、橋は橘橋と呼ばれているがその由来するのも、修齊翁の『橘橋』の号からであろうと云う。
 さて二男に生まれた晩郎は維新になると、故郷を後にし当時大阪で蘭方医を開業していた緒方洪庵(1810生、1863没)の塾(適々塾)に入り蘭学を学んだ。星享もその中に居たと云う。この適々塾に学んだ者に大島圭介(1833生、1911没)・福沢諭吉(1824生、1901没)・大村益次郎(1824生、1869没)の名があげられる。
 その後晩郎は、東京に出て工部省に奉職するに至ったが経緯についてはさだかでない。
 私の父幹造が東京の屋敷で、その父の死の悲報を聞いたのは僅か七歳の幼年であった。(没年明治15年6月1日卒お墓は銀山正楽寺境内にある)

異人館写真1
この写真は、異人館の写真としては一番有名なものです。が次の写真は同じ異人館を写してますが、道路を挟んで建物が建っていて、人も何人か映っています。
異人館2
写真が横を向いてしまってます。なぜこうなるのか、どうすれば直せるのか分かりません。ミラーマンがブログを書き始めてこれで3回目です。見ずらいですがすみません。
また次回、後半の部分を案内いたします。それでは、ごきげんよう、さようなら。
プロフィール

湯沢市ジオパーク推進協議会事務局

Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

御訪問ありがとうございます
カレンダー
12 | 2015/01 | 02
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
湯沢市のお天気時計
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク
検索フォーム
Yahoo!ニュース
RSSリンクの表示
QRコード
QR
都道府県別アクセス数
過去1週間の状況です

ジオターゲティング