湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 明治の近代化を推進した人々 牧相信編 

2015-02-02

先回は、牧相信の生い立ちや、工部学校のことについて案内しましたが、今回は、いよいよ、院内銀山時代の事を案内いたします
院内銀山 明治初期に活躍した人々 (会誌『院内銀山』第30号より)みゆき坑の官員達  福島晩郎と牧 相信  (吉田 國夫著)
会誌 『院内銀山』第30号の中に書かれている中から、院内銀山時代について書かれている物を中心に案内いたします。
牧相信は、熊本から、安東清人、近藤貴蔵に次ぐ三人目の鉱山学徒として、明治7年(1874)4月工部省が募集した工学寮に入学し、工部大学校の教育を受けた。卒業論文は、「淘汰機」についてまとめている。
 淘汰機は、淘礦機とも言い、鉱業の選鉱過程に、粗粒の精鉱を得るために用いる機械の一種で、鉱粒が水中で上昇や下降の運動を受けるとき、鉱粒が比重の差により分離層を作ることによるものである。
 この淘汰機によって、有用鉱物と脈石とが可成りよく分離され、鉱石の手による笊揚(しょうよう)選別に代わって、粉砕機、回転円篩(えんし)(ふるい)、淘汰機械の系列が初めて院内・佐渡に採用された。牧の論文が日本の鉱業の近代化に役立った意義は大きい。
 牧は、工部大学校六年の課程を終え、明治13年(1880)五月第二回生として学窓を出た。
 同校は、卒業後七年間、工部省に奉職する義務があるため、彼は、工部六等技手として官営院内銀山に勤めた。同期に、阿仁銅山の近藤陸三郎に狐崎富教や小坂銀山の仙石亮がいる。
 牧相信は工部大学校で修めた技術を発揮して、従来、下鉱として廃棄された鉱石を精鉱に活かして、銀生産の増強に尽くした。
 院内銀山は、明治17年(1884)12月古河市兵衛に払下げられ、翌18年から民間企業として発足した。所長に木村長七(のちに古河鉱業会社監事長、理事長)が来山して、三月には佐渡支廰の主任を勤めた服部貞幹に替った。
 山元では、鉱務課長に牧相信、製錬課長に工部大学校で同期の松下親業がある。ただ、民坑に移って間もない過渡期とあって、牧課長の指揮も充分には浸透しなかった。
 そこへ、十二月牧に生後5か月の子息八郎を失うという悲しみが訪れる。加えて、翌19年現場では、牧の片腕として信頼が厚く、大立坑の完成に尽くした坂崎太吉が46歳で他界した。牧相信は、有志と謀り、主鈴坂に顕彰碑を建てて坂崎の業績を偲んだ。 このような事情も重なって、牧は、愛児の墓碑を銀山に残して明治20年(1887)
2月新天地を求めて、大阪・高麗橋の藤田組に移った。

ここに出てくる、息子の墓については、院内銀山にあった『白銀小学校跡地』のすぐそばの高台に幾つかの御墓と一緒にさみしく立っています。今は、訪れる人もなくそばにある御墓を守っているある家の方が、自分の家の墓を守るついでに、掃除などして綺麗にしているという。ミラーマンも何度か御墓を見ているが、写真に撮っていなかったので、雪が溶けるまで待つしかありません。
また、もうひとつ。ここに出てきた坂崎太吉ですが、この人は山一竪坑を完成させた人で、この竪坑が出来たことで銀の産出量が一気に増大した。この、坂崎太吉氏については、後日、主鈴坂について、案内する時に、詳しく説明いたします。


白銀小学校この写真は、明治時代の白銀小学校ですが、小学校が立っている左側の樹木の中の少し高台の部分に、牧相信氏の息子さんの御墓が今でも残っています。
それでは、本日の案内はここまでに致します。ごきげんようさようなら。
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