湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地編

2015-03-16

 いよいよ、院内銀山の西三番共葬墓地の中に入っていきたいと思います。そして特徴のある御墓についての説明をしながら墓地見学を何回かに分けて案内したいと思います。
 まず最初は下の写真にあるように階段を上ったすぐ右側にある小山勇の墓について案内いたします。
見取り図
2015_03140002.jpg
上の写真2枚は最初が共葬墓地の全体の見取り図です。下の細かい字は御墓の名前です。もう一枚は見取り図の左半分を拡大したものです。今回案内する『小山勇墓』については階段の絵が描かれているすぐ右側の⑥の中にあります。
入ってすぐ右側です。下の写真の階段のすぐ右脇に写っている墓が小山勇墓です。
整備後の墓地写真1
それでは『小山勇墓』について案内します。御墓の説明や、戊辰戦争の事をふれながら、小山勇がなぜ戦死したのかを案内いたします。まず墓の写真です
小山勇
小山勇の墓

     小山勇墓 (西三番共葬墓地)
 西三番共葬墓地の入口右側に小山勇の墓が建っている。小山勇は戊辰戦争で亡くなった豊前小倉藩士である。
墓は正面 豊前小倉藩士官軍小山勇墓
   右面 慶応四年七月廿八日戦死於岩坂峠行年廿七歳
   左面 西光寺八世世誉上人代
此の小倉藩士の墓について、養安日記には、『豊前小倉の官軍の内一人、首ばかり水子塚柳の下へ葬り置き候。姓名小倉勇とあり。7月28日夜岩坂にて討死。宿酉松。勇山昇空居士』(明治1.8.12)とある。墓には戒名はなく水子塚は今もあり、柳の木は残ってないが、昭和の初めころ身内の者が九州から墓参りに来たのを見たことがあると古老は語る。この他院内信翁院墓地・秋ノ宮真木沢・寺沢にも戊辰戦死者の墓が残っている。
  秋田の戊辰戦争
《戊辰戦争》・・慶応4年/明治元年―2年(1868^69)は、王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩ら中核とした新政府と旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年が干支が戊辰であることに由来。
《奥羽越列藩同盟》・・戊辰戦争中に陸奥国、出羽国、越後国の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟。元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟であったため、両藩は盟約書には署名していない(両藩は会・庄同盟を結成)赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。
《秋田の戊辰戦争》・・東北における戊辰戦争は、薩長両藩が会津・庄内両藩に対する私的報復を果たすため、新政府の名において東北諸藩に発した会津・庄内両藩の討伐命令に端を発し、その命令に従った久保田藩の第一次庄内侵攻を皮切りに、南は福島県白河から北は青森県野辺地までの広い地域で戦われた。南東北では白河城争奪戦、二本松城攻城戦、会津若松鶴が城攻城戦が有名である。北東北では西軍側についた久保田藩領内の大半が戦場になり、遠くは九州の藩を含め18藩の兵が参戦し、9月25日の同盟側盛岡藩の降伏によって終わるまで、久保田藩の450人を筆頭に、東西両軍で1300人以上の戦死者を出している。秋田戦線では、久保田藩に次いで多くの戦死者を出しているのは庄内藩であるが、それでも久保田藩の半分以下の166人であるから、いかに久保田藩の犠牲が大きかったかが分る。(岩手人の見た戊辰戦争より)
 本題の西三番共葬墓地に有る小山勇の墓についてですが、小山勇がどのようにして戦死したかが、《秋田・庄内戊辰戦争、郡義武著》の中に詳しくかか荒れているので、その一部を紹介します。
 『7月28日 晴天
 午前二時、二番大隊は松明をかざして粛々と銀山越えの山道に分け入った。先鋒の治郎右衛門隊の半隊長中村順次と道案内人の寺崎嘉右衛門が先頭に立つ。
 最上生まれの嘉右衛門は隊長吉之丞の家来だが、恐れをしらぬ豪胆な性格で、味方にとってはまことに頼もしい男である。
 昨日もていさつに出向き、間道の地形や番兵の配置を詳細な地図に記して戻って来た。そして「敵の番兵の首は明日まで貸して置く」と大言したが、事実今日の戦で約束を果たす。
 間道は山深く太樹生い茂り、朽木が横たわり、藪をかき分けて進む「けものみち」のような悪路である。沢を渡り、また山を越え、道を知っている嘉右衛門は前進する。
 小隊より壮健な兵士を選び、嘉右衛門に続行させる。山上近くでいきなり西軍の斥候7・8名に遭遇した。
 嘉右衛門が素早く発砲し、一人を撃ち倒し、阿部弥五郎(権太夫隊伍長)がもう一人を倒したが、残りは逃げ去った。嘉右衛門が駆け寄って斬り付けたが、西兵の腰骨にあたり、刀が折れた。やむなく西兵の大小を分捕って身に帯びた(所持品から小倉藩士小山勇、27歳と判明した。もう一人は『幕末維新殉職者名鑑』、その他で調べたが、佐賀藩士古川善太郎、21歳が該当するようだ。)
 さらに警戒しつつ山を越えて進んだが、やがて銀山も近くなった谷間の各所に、西軍の強力な防御陣地多数が発見された。
***佐賀藩士古川善太郎の墓は、信翁院の墓地にある。


だいぶ長くなりましたが、共葬墓地の御墓編(小山勇墓)はおれで終わります。
これから別のお墓についても、出来るだけ詳しく案内いたします。飽きずに見てください。
それでは、ごきげんようさようなら。

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Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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