ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地 火災墓から
2015-04-02
先回は、明治39年1月4日に発生した院内銀山400年の歴史の中で最大の大惨事である坑内火災についての詳しい案内をしましたが、まだ続きがあります。当時の秋田魁新聞記事を今回も案内させていただきます。
かなり詳しく書かれていて、なまなましい当時の様子がよくわかります。 記事の中で4日後の8日から鉱石の採掘に掛ったと聞く、と書かれているが、今と違いこんなに早く再開するとは驚きです。
○ 一月十日の秋田魁新報より
ガスの為窒息死亡した者百三名となり、死体は昨日午前四時までに全部発見したと言われているが、発火した山一第二竪坑はガスがまだ飛散しており、その上川上の坑口と川下の坑口(御幸坑・西三番竪坑か?)が閉鎖されているので現場に行くことは出来ず、四五日経たなければ不可能である。
この変事のため鉱山の採掘は休止されているが、一昨夜=八日から出火の場所を除き坑道の清掃をして鉱石の採掘に掛っていると聞く。同山の坑内には火災予防の設備は一切無く、従って今回のような惨事となった。この点においては今後充分留意しなければならないことである。
○ 一月十一日の秋田魁新報より
出火場所は第二山一竪坑内であることは疑いない事実であるがその現場の模様は未だにガスが飛散して知ることは出来ない状況である。この第二竪坑は、全坑の送風筒であって、坑内に働く役員・坑夫はこの空気で僅かに生命を維ぐことができた。したがって送風筒の付近は、風は恰も雷鳴のような音が間断なく発して、坑内に風を吹き込むように設備され、その付近にあっては一切火気を持ち込むことは許されない規則であった。
(第二竪坑は火気を近づけることを厳禁していたが、世の中には兎角表裏があり、数十年来の慣習として役員も坑夫も炭火で暖をとっていたという。第二竪坑はこのような送風の場所であったので夏でも炭火がなくては過ごすことはできない場所であった。鉱山では表面は厳禁していたが、実際は黙過していたとい)
一月四日の午後四時三十分頃、誰かが「火事だ」と叫ぶ声がした。同時に坑内の坑夫等がゾロゾロと昇ってきて現場係に「何のためにこんな煙がくるのだろう」と話していたところ、間もなく鎮火したといううので再び坑内に入らせたとのこと。(御幸坑・山一竪坑)
この火事の声は、一方の第二竪坑に居たものも聞き付け、その付近にいた役人が駆けつけてみれば、この竪坑の少し屈曲した所で盛んに炭火を燃やし暖を採っていた三人の雑役夫が居た。役人は「貴様達はなぜこんな危険な所で暖を採っておるか」と詰責して横の板戸(諸器具を入れて置く所)を見れば、なにやら人の出入りした形跡があるので、試みにこれを開き竪坑を見下ろせば、坑内の井形になっている枠木(三尺づつの間隔で土石の崩壊を防ぐ留め木)が盛んに燃えだし猛烈な有様になっていた。
11日の新聞からは火の出た様子や、すぐに鎮火して、再び坑内に入った事が書かれているが、此の時にきちんと確認していればこんな大惨事にならなかったと思う。
それでは最後に鉱山の坑口の様子や、地下の坑道の様子を書いた図面があるのでそれを案内します。

上の図面に御幸坑・山一第一竪坑・第二竪坑・岡六番坑などが書かれています。

この図に書かれているように、地下400mも深くまで坑道が掘られていた。
それでは、次回は12日、14日の記事について案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。
かなり詳しく書かれていて、なまなましい当時の様子がよくわかります。 記事の中で4日後の8日から鉱石の採掘に掛ったと聞く、と書かれているが、今と違いこんなに早く再開するとは驚きです。
○ 一月十日の秋田魁新報より
ガスの為窒息死亡した者百三名となり、死体は昨日午前四時までに全部発見したと言われているが、発火した山一第二竪坑はガスがまだ飛散しており、その上川上の坑口と川下の坑口(御幸坑・西三番竪坑か?)が閉鎖されているので現場に行くことは出来ず、四五日経たなければ不可能である。
この変事のため鉱山の採掘は休止されているが、一昨夜=八日から出火の場所を除き坑道の清掃をして鉱石の採掘に掛っていると聞く。同山の坑内には火災予防の設備は一切無く、従って今回のような惨事となった。この点においては今後充分留意しなければならないことである。
○ 一月十一日の秋田魁新報より
出火場所は第二山一竪坑内であることは疑いない事実であるがその現場の模様は未だにガスが飛散して知ることは出来ない状況である。この第二竪坑は、全坑の送風筒であって、坑内に働く役員・坑夫はこの空気で僅かに生命を維ぐことができた。したがって送風筒の付近は、風は恰も雷鳴のような音が間断なく発して、坑内に風を吹き込むように設備され、その付近にあっては一切火気を持ち込むことは許されない規則であった。
(第二竪坑は火気を近づけることを厳禁していたが、世の中には兎角表裏があり、数十年来の慣習として役員も坑夫も炭火で暖をとっていたという。第二竪坑はこのような送風の場所であったので夏でも炭火がなくては過ごすことはできない場所であった。鉱山では表面は厳禁していたが、実際は黙過していたとい)
一月四日の午後四時三十分頃、誰かが「火事だ」と叫ぶ声がした。同時に坑内の坑夫等がゾロゾロと昇ってきて現場係に「何のためにこんな煙がくるのだろう」と話していたところ、間もなく鎮火したといううので再び坑内に入らせたとのこと。(御幸坑・山一竪坑)
この火事の声は、一方の第二竪坑に居たものも聞き付け、その付近にいた役人が駆けつけてみれば、この竪坑の少し屈曲した所で盛んに炭火を燃やし暖を採っていた三人の雑役夫が居た。役人は「貴様達はなぜこんな危険な所で暖を採っておるか」と詰責して横の板戸(諸器具を入れて置く所)を見れば、なにやら人の出入りした形跡があるので、試みにこれを開き竪坑を見下ろせば、坑内の井形になっている枠木(三尺づつの間隔で土石の崩壊を防ぐ留め木)が盛んに燃えだし猛烈な有様になっていた。
11日の新聞からは火の出た様子や、すぐに鎮火して、再び坑内に入った事が書かれているが、此の時にきちんと確認していればこんな大惨事にならなかったと思う。
それでは最後に鉱山の坑口の様子や、地下の坑道の様子を書いた図面があるのでそれを案内します。

上の図面に御幸坑・山一第一竪坑・第二竪坑・岡六番坑などが書かれています。

この図に書かれているように、地下400mも深くまで坑道が掘られていた。
それでは、次回は12日、14日の記事について案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。