湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地編 餓死供養塔

2015-05-14

今回から、天保の大飢饉のときに建てられた、餓死供養塔について案内いたします。
まず、西三番共葬墓地の中で、どのあたりにあるのかを図で見てみます。

見取り図
右見取り図
(済みません、また写真が横を向いてしまいました。なぜこうなるのか不思議です。)

全体図の右側を大きく写したのが横を向いてしまった図ですがその中の28の番号の所にあります、墓地にはいってから右の方へ奥へ奥へと歩いて行くと道沿いにあります。
餓死墓
この写真は以前写されたもので餓死供養塔の文字がはっきりと見えますが、最近写した写真は
餓死塔
このように苔むしてしまって、文字がはっきり読めません。
多くの人が、よそから院内銀山にやってきたが、到着と同時に亡くなった人が多くいたと言われています。その人たちの為に建てられたと言われています。
 その時、院内銀山は《天保の盛り山』と言って江戸時代では最大の銀の産出量を誇っていました。
院内銀山の中では、外の大変さをよそに、大いに賑わっていました。
 天保の大飢饉の様子と院内銀山のにぎわいの様子が『茶谷十六氏の院内銀山の日々、「門屋養安日記」の世界に描かれているのでご案内いたします。


茶谷十六 院内銀山も日々 「門屋養安日記」の世界
   < 餓死供養塔 食糧求め銀山目指す。

 「今度の墓地整備作業の中で、珍しい石碑が見つかったんですよ」
 院内銀山史跡保存顕彰会会長の諸越錬治さんに案内されたのは、三番共葬墓地の外れに立つ大きな自然石の石碑であった。土の中にすっかり埋もれていたのを、掘り出して立て直したのだという。正面に大きく「餓死供養塔」の文字が刻まれ、右側面に「天保六未年八月」の文字があった。
 天保四年(1833)年の「巳年の飢渇(みどしのけがち)」の犠牲者の供養塔で有ることは容易に想像される。
 天保四年、東北一円は未曽有の大凶作に見舞われた。特に日本海側の青森・秋田・山形で被害が大きく、この年の年末から翌五年の春にかけて、多くの餓死者が出る大飢饉となった。その惨状は「巳年の飢渇」という言葉と共に、東北各地の村々に今も語り伝えられている。
 この年、雄勝郡では、春の気候が良く、田植え後の稲の生育が順調で、かつてないほどの豊作かと喜ばれていた。ところが、五月下旬に「大変の陰雨」となり、その後も度々「冷雨・洪水」に見舞われた。六月中旬には「水霜」降り、綿入れを着る程の寒冷な日が多く、稲の葉が黄ばんできた。八月三日に鳥海山に初雪が降り、下院内村では、九月二十七日から二十九日まで雪が降り続いた。田植え後の冷気と長雨、そして早い降雪が、米作に壊滅的な打撃を与えた。収穫は平年作の二割、皆無というところもまれではなかった。
 天保四年末から五月初めにかけて、米不足が決定的となり、米価が高騰する。秋田藩では、不足分二十三万石と計算し、大坂から十万石、加賀から三万石の買い米を計画したが、冬期間の海上輸送はななならず、飢饉はの決定的となった。人々は、粟・稗はもちろん、とち・しだの実、さらにわらびの根・松の皮を採って食料とした。
 「巳年の飢渇」の犠牲となって、餓死また疫死した人は、秋田藩の全人口約四十万人のうち十万人にも上がったと伝えられた。



だいぶ長くなったので、今回はこの辺で終了いたします。
次回をお楽しみに、
ごきげんよう、さようなら。
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Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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