湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地編 キリスト教の墓 帰天碑

2015-05-29

 先回は、明治時代になって、江戸時代禁止されていた、キリスト教が解禁になり、院内銀山でもキリスト教がはいってくるまでの様子を案内いたしました。
 今回は、院内銀山でキリスト教が盛んになって行った様子を、「院内銀山史・渡部和男著」より先回同様ご案内いたします。


 院内銀山で伝道を始めたのは菅原直助である。
 「彼は牧師スミスの料理人によって導かれ、院内で働くようになってから伝道を始めた。会社当局はこれを止めようとしたが、彼は屈せず秋田から伝道者を呼んだ。信者たちは、毎日正午坑内でランプの光の下で勉強しお互いに励ましあった。」

工藤与作(本荘生まれ・弘化三=1864~大正一四=1925)は銀山町戸籍には載っていないが、白銀小学校修業台帳によれば、次女シホ(明治十九年九月生)が明治二八年四月に入学している。彼は明治二七年から明治三五年まで銀山に滞在して布教に活躍した。その間の銀山におけるキリスト教の普及は目覚ましかった。
 明治三一年(1898)ガルストとスチーブンスの演説会には300名の聴衆があった(スチーブンスは明治三九年白銀小学校で講話を行っている)。また同年東京・秋田から来た布教師の演説会には聴衆1000名、同年の会員36人、日曜学校生徒29人、三三年会員42人、教会・講義所三ヶ所、日曜学校生徒39人であった。工藤与作は明治三五年鶴岡の教会に転任した。「院内銀山町は、工藤氏がおられた頃は余程盛大であったが、氏が去らたのと山の不景気続きであるため、信者も多く他に移り、現在同地に残っているは僅か四名に過ぎない」。(後年工藤与作の記念碑が本荘教会内に建立された)
 明治四一・四二年の統計からは院内の名前は消滅しているという。「院内銀山は近年閉鎖され、クリスチャンの多くは北海道へ移住した。教会員名簿には七○名以上の名前が載っているが、現在残っているのは二人だけである。」

院内銀山共葬墓地にはキリスト教墓碑「帰天碑」がある。墓碑銘森田鉄之助。波津子の息子安吉が建てたもので、安吉は明治二二年(1889)に銀山から退いているが、ガルストから洗礼を受けた可能性が多分にある。安吉については、その名が銀山町戸籍に両親と載っている以外は全く不明である。

帰天碑1
帰天碑2

これで今日の案内は終わります。次回は、キリスト教と鉱山労働運動についてご案内し、キリスト教の墓については終わります。
ごきげんよう さようなら
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