湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地編 キリスト教徒の墓 帰天碑

2015-06-03

先回まで、2回ほどキリスト教徒の御墓である帰天碑についてご案内してきましたが、
今回はキリスト教徒の墓 帰天碑 について最後に致します。
今回のご案内は、院内銀山の労働運動の中心的役割を果たした人物について詳しくご案内いたします。
この人は、貧しい生活の中からキリスト教徒になり、その教えから労働者の権利獲得を目指して地道に努力をして、院内銀山で働く貧しい労働者をすこしで良い環境で働けるように、皆で団結していった事が書かれています。
 少し長くなりますが、是非読んでください。


         先回よりの続きとなります。

 鉱山労働者の権利向上のための闘争に、一生を賭けた永岡鶴蔵は明治19年に院内銀山に移り、のち21年に荒川鉱山で外人から洗礼を受けてキリスト教に入信し、正義入道のため生きることを決意したが、その信仰はガルストによるものではないかともされる。30年銀価の値下げによる不況のため、同志80人と夕張炭鉱に移ったが、翌年にはガルストも同地を訪問しているので、ガルストと交流があったものとみてもよいであろうし、ガルストの死去に際しては、永岡は個人的に弔辞を贈っているという。(保谷氏前掲書)
 永岡の闘争は自らを「耶蘇気違い」と呼び、伝道をしながらの闘争であった。明治25年院内銀山において、キリスト教伝道師と謀って「智徳養成会」を作り、坑夫等と「鉱業条例を研究する会」を結成している。そして翌年からストライキの指導者として闘争の先頭に立った。
 とくに永岡鶴蔵が命を賭けた社会労働運動を、キリスト教への入信によって決意した事は、明治20年代からの足尾鉱毒事件反対闘争の先頭に立った田中正造が、古い名家に生まれながら、伝統的な信仰の束縛から離れて、あえてキリスト教に運動の精神的支柱を求めたことと軌を一にするものである。しかし、銀山におけるこの様な流れも大きなうねりになることなく終わった。(終了)


この中に書かれている、永岡鶴蔵について、院内銀山史の第一人者である『渡部和男先生』がいつもこの永岡氏の事を熱く語っていますので、ミラーマンも影響を受けています。
(先日も、渡部先生と院内銀山を散策してきました。特に共葬墓地では、時間をかけて説明をしていただきました。)
そのため、永岡鶴蔵について、書かれている内容をご案内いたします。


 権利のための闘争―永岡鶴蔵 (院内銀山史 渡部和男著より)

永岡鶴蔵は文久3年(1863)大阪府大日川村(のち奈良県に編入)に生まれ、幼くして父母を失い貧困の中に暮らした。18歳の時、宋日鉱山(奈良県)を始りとして、和歌山・愛媛・新潟・秋田・山形・北海道の鉱山を転々と移り、院内銀山には明治19年(1886)~20年、24年~27年、30年の三回来山している。この間明治21年には荒川鉱山でキリスト教の洗礼を受け、「翻然として悟るところあり、それまでの生活態度を改め正義人道のため生きることを決意した」(中富書所収『自伝』以下同)
 院内銀山における権利向上のため本格的な労働闘争は、明治26年永岡鶴蔵と坑夫による、鉱業条例に基づく十数項目の就業規則の改善を求めてのストライキが始りである。鉱業条例は明治23年制定されたもので、その「坑夫」の章には坑夫の使役規則を定め、名目的ではあったが一応賃金・疫病・衛生等坑夫保護の規定があった。永岡は、鉱業条例には坑夫の生命・衛生を保護すべき事を明記しているのに、会社は守っていない点を坑夫達に訴え、ついに明治26年2月、十数項目にわたる就業規則の改善を経営者に請願することにした。永岡は勿論指導者であったが、他に高田為五郎・開川栄太等を委員に選び、要求貫徹まで「同盟罷業」(ストライキ)をすることを決定した。「その間の量食は銀山の坑夫部請負人等が必要なだけは仕送ることとなった。」つまり金名子の継承者である請負人(飯場頭)が坑夫の側に立って経営者に対抗したのである。
 鉱山当局は警察官を動員したり、「一日三円の日当で剣客(暴力団)を雇って要所に番兵を置いて妨害したが」、三日間のストライキを敢行して、要求の七割を鉱山当局に認めさせることに成功した。この後、永岡は述懐する。「同盟団結の勢力あることを知り得た労働者は、平常孤立の時は弱くも同盟団結したる時は非常な勢力で、常に威張っている役員も真っ青の面して猫に見つかった鼠のようであった。然しわれら坑夫は、彼らの見るごとく野蛮乱暴な者ではない。鉱業条例をたてとして請願するのであるから合法的秩序的にやるのである。」
 同じ年の永岡の闘争は「坑夫税」撤廃闘争であった。25年に県議会に提案された「坑夫税」は坑夫達には厳しい税で反対の声が上がった。
 明治26年5月6日の協議会で、全会一致で反対運動を行うことになった。永岡は「友子同盟」の組織を活用し、さらに「日本鉱山同盟会」(秋田県鉱夫同盟とも云った)を組織し、ついに明治26年12月19日廃案となった。
 院内銀山における永岡の権利擁護のための闘争は、明治20年にも見られた。
 当時の国家権力絶対主義体制の下で、明治26年以来3回もストライキを決行し成功している事は驚くべきことである。これは、永岡の粘り強い不撓の精神がその支柱であると言えるであろう。明治期にこのような権利擁護のための労働運動に命を賭けた人間が存在し、院内銀山においても果敢な闘争を行っていることに、歴史の与える重みというものを感ずる。


たいへん長くなりましたが、これでキリスト教徒《帰天碑》についてのご案内を終わります。
次回は、別の御墓につついて、ご案内いたします。
それでは、ごきげんよう、さようなら。
プロフィール

湯沢市ジオパーク推進協議会事務局

Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

御訪問ありがとうございます
カレンダー
05 | 2015/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
湯沢市のお天気時計
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク
検索フォーム
Yahoo!ニュース
RSSリンクの表示
QRコード
QR
都道府県別アクセス数
過去1週間の状況です

ジオターゲティング