ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地編 幼妻の墓
2015-06-08
先回までは、3回にわたって、明治期のキリシタン墓、”帰天碑”について、ご案内いたしました。
今回は、共葬墓地の中でもとても珍しい、お墓をご案内いたします。
それは、お墓の正面に女性二人の名前が書かれていますが、一人は矢野勘蔵(親)の妻・定○、もう一人は矢野徳之助(子)の妻・於品です。親子の妻同士だけが同じお墓に入っているというのはとても珍しい。しかも於品さんは15歳で亡くなっています。もうひとつ珍しいのは、矢野家の宗派は浄土真宗であるが、於品さんの方は浄土宗の戒名が付いている。これもとても珍しい。そして、極めつけは、於品さんの戒名がとても素晴らしい、ほめちぎった戒名になっているということです。
それでは、そのお墓をご案内いたします。
**矢野勘蔵と矢野徳之助は親子と書きました(渡部和男著【会誌】18号「院内銀山墓碑考」改訂版の院内銀山の記念碑と墓碑よりでは、兄弟と書かれていた)が、ある人から間違いとの指摘ありましたので、
( **矢野勘蔵は、天保年代の『養安日記』によれば、重手代として名前が挙がっている。
その当時の、重手代を見ると、和嶋清左衛門、平野東三郎、伊勢源蔵、伊勢与十郎、朽木金治、堀松嘉助、大地三九郎、鈴木六郎左衛門、金沢定次、金沢正蔵、朽木長左衛門、田口為三郎、田口喜七、湊藤吉、湊秀蔵、矢野勘蔵、桜田伊太郎、桜田弥七、渡部義八となっている。)


墓全体図の左側になり、それを拡大して見ると、⑬の位置にこのお墓はあります。

これがそのお墓の写真ですが、墓石が少し崩れ欠けていますが、何と書いているか、
右側には、釋尼純孝妙? (矢野勘蔵妻の戒名)(間違っていたら済みません)
左側 艶誉花顔妙姿大姉 (矢野徳之助定静妻俗称於品行年十五才)
このように二人の戒名が書かれています。
戒名に釋が付くのは浄土真宗で、
誉は浄土宗です。
このように別々の宗派の戒名が付いています。
とても珍しいです。
ここの墓地の中で今のところ私は他に見たことがありません。
そして、左側の幼妻の戒名は、
艶とは、上品なあでやかさ、
妙とはとても良い。
此のことから 艶誉花顔妙姿大姉とは、
とても上品であでやかな顔や姿をした女性であったという意味か。
最大のほめ言葉が書かれていると思う。
幼妻の墓について、今回はここで終わらせていただきます。
次回は、幼妻の墓、パート2をご案内いたします。
それでは、ごきげんようさようなら。
今回は、共葬墓地の中でもとても珍しい、お墓をご案内いたします。
それは、お墓の正面に女性二人の名前が書かれていますが、一人は矢野勘蔵(親)の妻・定○、もう一人は矢野徳之助(子)の妻・於品です。親子の妻同士だけが同じお墓に入っているというのはとても珍しい。しかも於品さんは15歳で亡くなっています。もうひとつ珍しいのは、矢野家の宗派は浄土真宗であるが、於品さんの方は浄土宗の戒名が付いている。これもとても珍しい。そして、極めつけは、於品さんの戒名がとても素晴らしい、ほめちぎった戒名になっているということです。
それでは、そのお墓をご案内いたします。
**矢野勘蔵と矢野徳之助は親子と書きました(渡部和男著【会誌】18号「院内銀山墓碑考」改訂版の院内銀山の記念碑と墓碑よりでは、兄弟と書かれていた)が、ある人から間違いとの指摘ありましたので、
( **矢野勘蔵は、天保年代の『養安日記』によれば、重手代として名前が挙がっている。
その当時の、重手代を見ると、和嶋清左衛門、平野東三郎、伊勢源蔵、伊勢与十郎、朽木金治、堀松嘉助、大地三九郎、鈴木六郎左衛門、金沢定次、金沢正蔵、朽木長左衛門、田口為三郎、田口喜七、湊藤吉、湊秀蔵、矢野勘蔵、桜田伊太郎、桜田弥七、渡部義八となっている。)


墓全体図の左側になり、それを拡大して見ると、⑬の位置にこのお墓はあります。

これがそのお墓の写真ですが、墓石が少し崩れ欠けていますが、何と書いているか、
右側には、釋尼純孝妙? (矢野勘蔵妻の戒名)(間違っていたら済みません)
左側 艶誉花顔妙姿大姉 (矢野徳之助定静妻俗称於品行年十五才)
このように二人の戒名が書かれています。
戒名に釋が付くのは浄土真宗で、
誉は浄土宗です。
このように別々の宗派の戒名が付いています。
とても珍しいです。
ここの墓地の中で今のところ私は他に見たことがありません。
そして、左側の幼妻の戒名は、
艶とは、上品なあでやかさ、
妙とはとても良い。
此のことから 艶誉花顔妙姿大姉とは、
とても上品であでやかな顔や姿をした女性であったという意味か。
最大のほめ言葉が書かれていると思う。
幼妻の墓について、今回はここで終わらせていただきます。
次回は、幼妻の墓、パート2をご案内いたします。
それでは、ごきげんようさようなら。