湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 西三番共葬墓地編 幼妻の墓

2015-06-13

先回は、幼妻の墓の正面の写真と幼妻の戒名について、ご案内いたしました。
今回は、左面、右面の写真を見ていただきます。
幼妻2
この写真は向かって右側になります。
矢野勘蔵の妻の事が書かれていますが、あまりよくわかりません。済みません

幼妻1
向かって左側の墓の字は、はっきりと読み取れます。
安政五年庚申正月二日卒
矢野徳之助定静妻俗名於品
行年十五歳


それでは、この幼妻に関して、院内銀山に関する本を沢山出されている、渡部和男先生が書かれたものが、会誌に載っていたのでそれをご案内いたします。

幼な妻の墓 (西三番共葬墓地) 
《「会誌」18号「院内銀山墓碑考」改訂版》 院内銀山の記念碑と墓碑 渡部和男著より  
             
 幼な妻の墓―墓碑に探るある銀山人の生涯 
矢野勘蔵妻の戒名と並んで次の戒名が彫られてある。
 艶誉花顔妙姿大姉 (誉は浄土宗)

 側面には「矢野徳之助定静妻俗称於品行年十五才」とある。『杉田家文書』「院内役付帳」によればこの時徳之助は18歳。おそらく結婚間もなく亡くなったのであろう。悼みの気持ちが遺憾なく現れた戒名である。勘蔵と徳之助との年齢差は12歳、兄弟であろう。後に徳之助は「天保の盛り山」功労者杉田久吉(重手代)孫娘キチと再婚したが(『杉田家過去帳』)、墓碑銘では、キチは明治18年40歳で早世、五男は明治36年北海道幌内炭鉱ガス爆発のため25歳で惨死という不運に見舞われている。徳之助は明治21年白銀小学校全校写真には役場員とあり、「盛り山」功労者工藤紀太郎(重手代)墓碑顕彰文の選者の一人になっている。墓碑四基のうち、左端は勘蔵妻と幼な妻の墓、三つ目は五男の墓、右端はキチ・勘蔵の妻。徳之助が建てたものであろうが、自分の墓はない。明治期銀山繁栄の一翼を担った徳之助は、この様な不運を背負いはしたが、工藤紀太郎墓碑顕彰銘文選者になるような学識ある人物であったと思われる。

**この渡部和男著の中の、矢野勘蔵と矢野徳之助は、兄弟ではと書いてあるが、ある人から、間違いの指摘ありましたが、疑問ですが、会誌に書かれているので載せました。  後日調査の結果、親子と判明。お詫びいたします。

後日、ここに書かれている、他の矢野家のはかについても機会があれば、ご案内いたします。
それでは、幼妻の墓に関しては終わらせていただきます。

ごきげんよう、さようなら。

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