ミラーマン 院内銀山を行く 『主礼坂編』 當山開闢碑
2015-09-01
先回に引き続き、
主礼坂にある石碑『當山開闢』について、ご案内いたします。
今回は、院内銀山記に書かれている
院内銀山発見の事 これをやさしく書いたものが
『院内銀山ものがたり』(院内銀山史跡保存顕彰会)(昭和62年発行)
に出ているので、
それをご紹介いたします。
院内銀山の発見
院内銀山のもがたり 院内銀山史跡保存顕彰会より
院内銀山は、慶長11年(1606)越前の人村山宗兵衛・会津の人渡部勝左衛門・伊勢の人森治郎右衛門・仙北の人石山伝助達によって発見されました。
村山宗兵衛は、関ヶ原の合戦に敗れ、仙北の長野(現在の仙北町)の知人を頼って落ちのびていました。
その頃、小野の里に砂金を採取している関ヶ原合戦の頃の同志である渡部勝左衛門・森治郎右衛門・石山伝助たち三人がおりました。
宗兵衛は、この人達と共に砂金の採取を業としていましたが、ある時はからずも霊夢(不思議な夢)をいただき、この川上に良鉱のあるお告げをいただきました。
そこで、村山宗兵衛は独り川伝いに、奥山に入っていきました。
長倉部落をすぎ谷沿いに進んだが、道らしい道がなくなって左右に大木、小木が生い茂り日の光が、見えないような深山となりました。
しかし、宗兵衛は霊夢を信じて、奥へ奥へと進んで行きますと、小野の里から16余kmも過ぎたところに、ものすごい滝がありました。
この滝を登らなければと、見上げてみると高さ三十丈(9m)ばかりで、左は青色の岩で、屏風の様にそびえ立ち、右は松柏が生い茂って小笹が交じって、滝の上をおおっているので、これでは鳥でなければ登れないと、ため息をついて暫く時を過ごしていましたが、もともと勇気のある人だったので、よじ登りましたところ霊夢の通り素晴らしい銀の露頭を発見しました。
これは山神のお告げとその夜は山神を祈ってこの深山に通夜しました。
翌朝夜の明けるのを待ちかねて急いで小野の里に帰り、三人の仲間に告げ、四人一緒に連れたって数十人の金掘を伴って銀の発掘に取りかかりました。
掘り出した銀は色つやがよく、その輝きは十五夜の月ようだったので、この事藩主に佐竹義宣公に言上し、宗兵衛達は山先の証文をいただきました。
以来、院内銀山はまたたくまに栄え三百五十年の歴史の幕が切って落とされることになりました。
付けたり
(その1)慶長十三年には八方の谷々残らず屋敷となりました。
その町々を数えてみますと、先ず、四郎兵衛沢町と云って町の入口東にあって、次は南沢町、炭焼沢町、山神町、荒町、上川原町、下川原町、勘四郎沢町、酒田沢町、千枚口町、石垣町、都平町、山先町、上京町、下京町、味噌屋町、塩谷小路、荒川小路、塩谷小路、四百枚平小路、熊谷小路、塩谷引分小路、炭灰谷小路、三十枚小路、野田小路などで、山小屋千軒、下タ町千軒と数千軒の町々が出来上がりました。
(その二)村山宗兵衛が、霊夢を信じて銀山の奥へ奥へと進み、鳥でなければ登れないと、ため息をついて暫く時を過ごしたという不動滝―この滝について原文では(・・・左に青岩屏風の如くそば立ち、高さ三十丈ばかりそびえたり、右は松柏生い茂り小笠交わりて、滝の上をおおいければ、鳥ならでは・・・)
(その三)主鈴坂(この本では鈴を使用)下に嘉永元年に建てられた銀山発見者村山宗兵衛・渡部勝左衛門・森治郎右衛門・石山伝助たちの顕彰碑があります。
(その四)村山宗兵衛は西光寺に埋葬されていました。現在の墓碑は、天保年間に再建されたもので、正面には 釈 宗 信 慶長十八丑天
七月朔日卒 と記しています。



ちなみに、この記述の真意を確かめるために
現地調査をした人達がいます。
昭和54年8月5日から同8月10日に行われました。
新潟県立羽茂高校、新潟県立佐渡女子高校、新潟県立相川高校、
秋田県立増田高校の生徒と職員。
新潟県立相川高校鉱山史研究会OB会。
首都圏からは国学院大学地理学研究室とOBが加わり,
男女合わせて総勢38人に及んだ。
「銀山班」「中世産金班」「城址班」「流通・文書班」
「都市班」「神社班」「寺堂班」「石塔班」「民族班」
「報道班」が編成された。
その報告書の中に、
銀山発見順路推定略図(作図 影山 由紀子)があります。

上の図が村山宋兵衛が院内銀山を発見した時
移動した道を推定しています。
始めの場所は
小野の鮎の家のそばの雄物川で砂金採りをしていて
そこに流れ込む沢を伝って山の中に入って行きました
(図では上の方で左に回って下に線が引かれている)
図の左上の所に印あり、そこが金山・金入沢と言われて
いる場所で、実際に砂金も採取された。
そこから山を越えて、院内の松根に入り、夢を見て
長倉から院内銀山の奥の不動滝に辿り着いたと
推定しています。
(金山には鉱山の跡らしき洞窟があります)
長くなりましたが、
今回はこれでお別れします。
ごきげんよう、さようなら。
主礼坂にある石碑『當山開闢』について、ご案内いたします。
今回は、院内銀山記に書かれている
院内銀山発見の事 これをやさしく書いたものが
『院内銀山ものがたり』(院内銀山史跡保存顕彰会)(昭和62年発行)
に出ているので、
それをご紹介いたします。
院内銀山の発見
院内銀山のもがたり 院内銀山史跡保存顕彰会より
院内銀山は、慶長11年(1606)越前の人村山宗兵衛・会津の人渡部勝左衛門・伊勢の人森治郎右衛門・仙北の人石山伝助達によって発見されました。
村山宗兵衛は、関ヶ原の合戦に敗れ、仙北の長野(現在の仙北町)の知人を頼って落ちのびていました。
その頃、小野の里に砂金を採取している関ヶ原合戦の頃の同志である渡部勝左衛門・森治郎右衛門・石山伝助たち三人がおりました。
宗兵衛は、この人達と共に砂金の採取を業としていましたが、ある時はからずも霊夢(不思議な夢)をいただき、この川上に良鉱のあるお告げをいただきました。
そこで、村山宗兵衛は独り川伝いに、奥山に入っていきました。
長倉部落をすぎ谷沿いに進んだが、道らしい道がなくなって左右に大木、小木が生い茂り日の光が、見えないような深山となりました。
しかし、宗兵衛は霊夢を信じて、奥へ奥へと進んで行きますと、小野の里から16余kmも過ぎたところに、ものすごい滝がありました。
この滝を登らなければと、見上げてみると高さ三十丈(9m)ばかりで、左は青色の岩で、屏風の様にそびえ立ち、右は松柏が生い茂って小笹が交じって、滝の上をおおっているので、これでは鳥でなければ登れないと、ため息をついて暫く時を過ごしていましたが、もともと勇気のある人だったので、よじ登りましたところ霊夢の通り素晴らしい銀の露頭を発見しました。
これは山神のお告げとその夜は山神を祈ってこの深山に通夜しました。
翌朝夜の明けるのを待ちかねて急いで小野の里に帰り、三人の仲間に告げ、四人一緒に連れたって数十人の金掘を伴って銀の発掘に取りかかりました。
掘り出した銀は色つやがよく、その輝きは十五夜の月ようだったので、この事藩主に佐竹義宣公に言上し、宗兵衛達は山先の証文をいただきました。
以来、院内銀山はまたたくまに栄え三百五十年の歴史の幕が切って落とされることになりました。
付けたり
(その1)慶長十三年には八方の谷々残らず屋敷となりました。
その町々を数えてみますと、先ず、四郎兵衛沢町と云って町の入口東にあって、次は南沢町、炭焼沢町、山神町、荒町、上川原町、下川原町、勘四郎沢町、酒田沢町、千枚口町、石垣町、都平町、山先町、上京町、下京町、味噌屋町、塩谷小路、荒川小路、塩谷小路、四百枚平小路、熊谷小路、塩谷引分小路、炭灰谷小路、三十枚小路、野田小路などで、山小屋千軒、下タ町千軒と数千軒の町々が出来上がりました。
(その二)村山宗兵衛が、霊夢を信じて銀山の奥へ奥へと進み、鳥でなければ登れないと、ため息をついて暫く時を過ごしたという不動滝―この滝について原文では(・・・左に青岩屏風の如くそば立ち、高さ三十丈ばかりそびえたり、右は松柏生い茂り小笠交わりて、滝の上をおおいければ、鳥ならでは・・・)
(その三)主鈴坂(この本では鈴を使用)下に嘉永元年に建てられた銀山発見者村山宗兵衛・渡部勝左衛門・森治郎右衛門・石山伝助たちの顕彰碑があります。
(その四)村山宗兵衛は西光寺に埋葬されていました。現在の墓碑は、天保年間に再建されたもので、正面には 釈 宗 信 慶長十八丑天
七月朔日卒 と記しています。



ちなみに、この記述の真意を確かめるために
現地調査をした人達がいます。
昭和54年8月5日から同8月10日に行われました。
新潟県立羽茂高校、新潟県立佐渡女子高校、新潟県立相川高校、
秋田県立増田高校の生徒と職員。
新潟県立相川高校鉱山史研究会OB会。
首都圏からは国学院大学地理学研究室とOBが加わり,
男女合わせて総勢38人に及んだ。
「銀山班」「中世産金班」「城址班」「流通・文書班」
「都市班」「神社班」「寺堂班」「石塔班」「民族班」
「報道班」が編成された。
その報告書の中に、
銀山発見順路推定略図(作図 影山 由紀子)があります。

上の図が村山宋兵衛が院内銀山を発見した時
移動した道を推定しています。
始めの場所は
小野の鮎の家のそばの雄物川で砂金採りをしていて
そこに流れ込む沢を伝って山の中に入って行きました
(図では上の方で左に回って下に線が引かれている)
図の左上の所に印あり、そこが金山・金入沢と言われて
いる場所で、実際に砂金も採取された。
そこから山を越えて、院内の松根に入り、夢を見て
長倉から院内銀山の奥の不動滝に辿り着いたと
推定しています。
(金山には鉱山の跡らしき洞窟があります)
長くなりましたが、
今回はこれでお別れします。
ごきげんよう、さようなら。