ミラーマン 院内銀山を行く 御幸坑編
2015-12-30
先回は、簡単な御幸坑の写真をご案内しましたが、
今回から、少し詳しくご案内いたします。
五番坑(御幸坑)
江戸時代から明治14年9月21日明治天皇が五番坑に入られる迄は
五番坑と言っていました。
そのことについて、少しご案内いたします。
会誌19号 (院内銀山 院内銀山史跡顕彰保存会発行)
院内銀山の憶い出の断片
秋田市 藤谷 菊男
御幸坑
かつて岡五番坑と称した坑口で、明治天皇が明治14年9月21日東北御巡幸の折お立ち寄りになり、
本坑に数歩入坑されたので、「御幸坑」と呼ぶようになった。
坑道は螺旋式の特殊な竪坑で、梯子を使わず、約五十米下って大切坑に通じていた。
この地点より約百米行くと、旧山市竪坑の跡があり、岩盤を掘削して広い空間を作り、
そこに機械機材が設置されていたようである。
この地点から下九番坑まで約二百八十米掘り下げ梯子を使っての作業であり、
当時の鉱山労働の苛酷さが印象づけらてた。

最初に、院内銀山跡地の史跡の案内図です。
入口からまっすぐ進んで奥の金山神社まで行くと、右に曲がります。
少し行くと左手に大きな駐車場が出てきます。
ここには先々回ご案内した鉱山分局跡の看板が立っています。
ここで車を降りて少し奥に行けば、右手に橋があります。
渡れば御幸坑です。

この絵図は江戸時代に書かれた絵図の写しです。
(日本鉱業史研究会平成22年度現地研究会『院内銀山』で配布された資料の一部です)
拡大して五番坑の場所をよく見ると

山神宮の斜め前に山方役所と坑口が書かれています。
それでは、更に詳しく江戸時代に書かれた銀山の絵をご案内いたします。

上の絵図を更に色を付けた絵です。

坑口から坑内に入っていく様子が書かれています。

安政3年に書かれた坑内の様子です。
まさにアリの巣の様です。

上の図は、明治になってから
山市竪坑が掘られて、地下400m以上も張られていた様子。
今回は、この辺で終了いたします。
次回は、山方役所についてご案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。
今回から、少し詳しくご案内いたします。
五番坑(御幸坑)
江戸時代から明治14年9月21日明治天皇が五番坑に入られる迄は
五番坑と言っていました。
そのことについて、少しご案内いたします。
会誌19号 (院内銀山 院内銀山史跡顕彰保存会発行)
院内銀山の憶い出の断片
秋田市 藤谷 菊男
御幸坑
かつて岡五番坑と称した坑口で、明治天皇が明治14年9月21日東北御巡幸の折お立ち寄りになり、
本坑に数歩入坑されたので、「御幸坑」と呼ぶようになった。
坑道は螺旋式の特殊な竪坑で、梯子を使わず、約五十米下って大切坑に通じていた。
この地点より約百米行くと、旧山市竪坑の跡があり、岩盤を掘削して広い空間を作り、
そこに機械機材が設置されていたようである。
この地点から下九番坑まで約二百八十米掘り下げ梯子を使っての作業であり、
当時の鉱山労働の苛酷さが印象づけらてた。

最初に、院内銀山跡地の史跡の案内図です。
入口からまっすぐ進んで奥の金山神社まで行くと、右に曲がります。
少し行くと左手に大きな駐車場が出てきます。
ここには先々回ご案内した鉱山分局跡の看板が立っています。
ここで車を降りて少し奥に行けば、右手に橋があります。
渡れば御幸坑です。

この絵図は江戸時代に書かれた絵図の写しです。
(日本鉱業史研究会平成22年度現地研究会『院内銀山』で配布された資料の一部です)
拡大して五番坑の場所をよく見ると

山神宮の斜め前に山方役所と坑口が書かれています。
それでは、更に詳しく江戸時代に書かれた銀山の絵をご案内いたします。

上の絵図を更に色を付けた絵です。

坑口から坑内に入っていく様子が書かれています。

安政3年に書かれた坑内の様子です。
まさにアリの巣の様です。

上の図は、明治になってから
山市竪坑が掘られて、地下400m以上も張られていた様子。
今回は、この辺で終了いたします。
次回は、山方役所についてご案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。