湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 御幸坑編

2016-02-08

御幸坑についての記述が長くなっていますが、
もうしばらくお付き合いください。
今回は、五番坑という名であった坑口が
誰により、いつ頃から御幸坑と呼ばれるようになったのか
院内銀山史跡保存顕彰会の会誌”院内銀山”からご案内いたします。


会誌 第二十五話

  五番坑を御幸坑と名づく  より

昭和6年9月21日、この日は明治天皇院内銀山御臨幸五十周年にあたりますので、その記念の事業や行事が取り行われました。
 まず、明治天皇の御入坑なされました五番坑を永く保存するために坑口を院内石で加工し、
『御幸坑』と名付けられ、「明治天皇御臨幸遺跡御幸坑」と刻した碑が立てられました。
昭和6年御幸坑
(この写真が、昭和6年9月21日当時のものです。)
そして、大切口には「明治天皇臨幸遺跡大切口御野立所」
鉱山分局跡には「明治天皇臨幸遺跡院内銀山分局跡」と刻した碑が立ち、
御幸坑の側には内大臣正二位勲一等伯爵牧野伸顕氏が「明治天皇臨幸記念」と題字を書かれ、従四位勲三等男爵古河虎之助氏の撰文を臨時帝室編修官従六位上野竹次郎氏の書で立派な記念碑が立ち、
陛下にお茶を差し上げた御膳水井には「明治14年9月21日車駕臨幸之際汲以所献」(水を汲んで差し上げた所)と、刻した碑が立ちました。
 この様にして、遺跡が永く保存出来るように整備されて、盛大な記念の式典が行われました。
 一方、斎藤家では、昭和5年行在所の跡に正三位勲三等功四級候爵西郷従徳氏の謹書による記念の碑が立てられ、昭和6年9月21日には、銀山の式典後自宅の庭園で町の人達大勢を招いて盛大な祝賀の宴を開きました。



このように、書かれています。この中で御幸坑と呼ばれるようになったのが
昭和6年と思われるといけないので、次の文章もご案内いたします。


 会誌 第二十号より
院内銀山研究考    理学博士 斎藤 實則(聖霊女子短期大学 講師)  当時


御幸坑と『明治天皇御幸坑御臨幸壁画』

明治十四年九月二十一日、明治天皇東北地方ご巡幸のみぎり、院内銀山五番坑に入坑され、
吉井工部大輔によって、『御幸坑』と命名され、以後九月二十一日は鉱山記念日となった。
『古河市兵衛翁傳』には
「明治十四年、明治大帝奥羽御巡幸の砌(みぎり)鳳賀をこの銀山に抂げさせられ、畏(おそれおお)くも
五番坑に御入坑遊ばされた。隨鑾記程に「九月二十一日、欲 巡 覧銀山町鑛坑。大路沿 渓。所在廠舎。様式石造。運 機器。 以 火力水力。踰 芦坂 即銀山町。吉井工部大輔率 屬吏、 蹕於鑛山分局。既而幸五番坑口。有司秉 燭先導。漸入 夜國。登降屈曲、鞠躬如不 容。」とある。これが原典である。
***書かれている内容をそのまま写しました。

「東北鉱山風土記」には『・・・次いで五番坑に抵り坑夫の荷擔して出入りするの状を覧、進みて坑内に入りたまふこと玉歩数武に及ぶ。』とある。
 武は「一歩(六尺)の半分、半歩の長さ。」である。
 明治天皇の五番坑への入坑の様子を、古河虎之助(男爵・二代目社長)の委嘱で盛岡市出身の五味清吉画伯が壁画に描いた「明治大帝行幸謹寫」が神宮聖徳絵画館にかざられており、院内銀山異人館展示室にある【明治天皇御幸坑臨幸壁画」はその模写である。鑑賞に当たって、数武の意味が重要となる。

このように書かれています。
『御幸坑』の命名者は、明治天皇がご巡幸された当時の 『吉井工部大輔』であり、当時から呼ばれていたと思われます。


今日は少し難しい内容になってしまいましたが、この辺で終了いたします。
ごきげんよう、さようなら。
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世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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