湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 院内銀山墓碑地図 その他の墓地 小野地区の墓地

2016-12-24

友子制度について、先回は吉城先生の書かれたものを紹介しました。
今回は、再び村串先生の書かれた
『院内銀山に伝統的な鉱夫同職組合・友子の資料を求めて』
の中に書かれている院内銀山における『友子』についてご案内いたします。

《院内銀山に伝統的な鉱夫同職組合・友子の資料を求めて》
 法政大学名誉教授 鉱山研究会会長  村串仁三郎(会誌発行当時)  会誌「院内銀山」第37号より

≪江戸時代の院内銀山の友子≫
院内銀山においては、友子に関する資料はほとんど見当たらなかった。
ただ、その存在を確認する手段として、二つの方法があった。
その一つが友子の墓の存在だった。
友子は、親分が死ぬと子分たちで親分の墓を建てる慣習をもっていた。各地の鉱山でそうした墓を見る事が出来る。仙台の郷土史家吉城文雄氏は、明治、大正、昭和期の院内銀山の墓地を調査して、安政六年に建立された「南部和吉」の墓は、「秋田房松」によって建立されたと指摘している。また文久一年に建立された「伊勢菊松」の墓は、「秋田文太郎」の建立したものと指摘している。(吉城文雄「院内銀山地間墓地調査結果一覧」未公開)。この両者の関係は、墓柱には何も記されていないが、後世に確認される子分が親分の墓を建てたことを意味していた。ちなみに江戸時代、鉱夫は苗字を持たないから、南部出身の何某と名乗っていたので、ここでは親子ではない、南部出身の親分「和吉」の墓を、秋田出身の子分「房松」が建立したものと理解される。
 こうした墓が吉城氏によると八柱残っていたということであった。私も、1984年の夏の調査で、これらの墓の存在を確認した。これらの墓の存在は、江戸時代に既に友子の仏参・墓参慣行が行われていたことを示し、院内銀山に友子組織が存在していたことを証明している。(詳しくは前掲「日本の伝統的労使関係」
168頁)
**ただ、ミラーマンはこの江戸時代の墓のことを知ったのがつい最近のため、雪で行けなくなってしまい、まだ、確認していない。

 もう一つの資料は、院内銀山のお抱え医者であった門屋養安の日記である。門屋養安日記は、公刊されるまで一般に見る事が出来ず、その全貌が明らかにならなかった。わらび座の松岡精、茶谷十六の両氏によって解読され、1996年1997年の両年に刊行された。この養安日記に友子についての記述があった。
養安日記には次の様な記述がある。
1858年(安政5年)7月14日の頁に「金名工仁八家ニ而大工・掘子取立有之、惣人数大工・掘子前々より此度之程人数余慶成事無之、見物人之莫大夥敷事と承申候」とある(『近世庶民生活史料未刊日記集成』第二巻[門屋養安『日記』下巻]、1997年、三一書房、226頁)
 なお最初に養安『日記』の友子記述を紹介してくれたのは、荻慎一郎「門屋養安と院内銀山」、『金属鉱山研究』第六五号、1992年1月7頁、であった。
 この『日記』は、二、三名から五、六名、時には十数名の鉱夫を雇って一緒に働く金名工(かなこ)と呼ばれた親方鉱夫・あるいは小鉱山業者である仁八の家で取立がおこなわれ、見物人が多数集まったと記しているのである。
 大工とは、採鉱夫のことであり、掘子とは、採鉱夫の採掘した鉱石を坑外に運び出す坑夫見習いのことである。「取立」というのは、先に説明したように、掘子を大工に昇格させ、親分鉱夫の子分として、友子仲間に加入させ、親分鉱夫のもとで修行するシステムのことである。
 養安『日記』には、友子の名称を使っていないが、友子にかかわる事象を示す用語が幾つかでてくる。弘化三年六月二七日の頁に、「長次ト申者寛蔵弟分ニ貰(もらい)請」、その晩に酒宴を開いていることを記しており、また天保八年当時、「金名子伴番小屋」とか「飯はん」(はんばんのなまりか)、「は」に濁点が抜け落ちているからであろう)という用語が記されている。(前掲『近世庶民生活史料未刊日記集成』第一巻[門屋養安『日記』上巻]、1996年、391頁。「門屋養安と院内銀山」、『金属鉱山研究』第六五号、八頁。)
 明治期の友子が使用した「飯場」や「親分子分」、「兄弟分」「弟分」という用語が、ここですでに「弟分」「伴番小屋」、「飯はん」とかいう用語として使われている。これは、院内銀山にも友子制度が存在していたことを証明している。
 近世鉱山の論文を書いているが、その中で天保4年の争議に関する資料を引用し、友子の活動を窺わせる言葉を紹介している。(「門屋養安と院内銀山」、『金属鉱山研究』第六五号、七頁)
 天保4年4、5月頃の小貫東馬文書に、院内銀山の鉱夫、百数十名が争議を起こした際の要求書に「諸突合並末々引立」といった言い方があるが、これは後世に広く使われる友子の活動を「附合」と呼ぶ言い方が、ここでは「突合」と呼んで、当時院内銀山でも鉱夫達が友子の附合を行っていたことを物語っている。
 またこの「突合」の中身については、「諸浪人突合之節清酒ニ而大工壱鍍斗・ほり子七升肴三品」などという指摘もある。
 この「浪人突合」というのは、明治期に普及していた友子の浪人附合=交際を思い起こされる。友子に属する鉱夫が、他地域や他鉱山から当地の鉱山を訪れた際に、当地の友子から手厚く接待をうける制度のことである。
 それだけではない。組織的な争議は、荻慎一郎氏も認めているように、これらの争議の背景に友子が存在したことが明らかなのである。(前掲論文、9頁)
 江戸後期の東北に明治期の友子制度の原型が出来上がり、かなり普及していたことはこれまでの私の研究で明らかであり、資料こそ少ないが、院内銀山にも友子制度が厳然として存在していたと断言出来る。
永くなったので、この辺で終了します。

西三番共葬墓地にある ≪友子墓≫の紹介
工藤留吉1
秋田出生 工藤 留吉
       白川 ミサ 墓
工藤留吉2
左面 明治40年2月2日
    行年 56歳
    工藤 宇之助(?)
工藤留吉3
右面 秋田出生  奉・・・?
    ?  髙木 ?
       細? 米?
       守・・・?
       佐藤 ・・?
       長沢 ・・?
       田中 与之?
       佐? 千代?
追伸
本日12月24日(土)夕方3時ころ院内銀山跡に行ってきました。
今年の12月は雪の少ないこともあるが、除雪が入っていて道路の雪は少なく、
何台かの車が入った跡がありました。
共葬ぼち
ミラーマンも車で共葬墓地まで行きました。
共葬墓地1
墓地の中はさすがに雪が深く、20cm位はありました。
長靴を履いて入ったが、歩きずらかったです。
墓地は静まり返っていて、薄気味悪かったです。
すぐに帰ってきました。
共葬墓地2
 
次回も友子について、ご案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。


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