湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代)

2017-02-07

先回まで、院内銀山にまつわるお墓のことをご案内してきましたが、
今回からは、院内銀山の明治以降(古河時代)の様子と現在の様子を比較しながらご案内していきます。
まずは、明治期になると、以前ご案内したように、民間の小野組や国の支配の官営鉱山になったりしたが
あまりうまくいかず、遂に1885年に古河市兵衛に払い下げられました。
それ以降は、院内銀山での鉱石の砕石や精錬などが今までの院内銀山地内から少し出て、長倉・落合方面に主体が移っていきました。それらのことを少し詳しくご案内していきます。
 まず、今回は、古河市兵衛について、簡単な経歴をご案内したいと思います。



《院内銀山と古河市兵衛》

古河市兵衛(天保3年3月16日(1832、4、16)~明治36年4月5日(1903)  朝日日本歴史人物事典の解説より
明治の実業家。古河財閥の創業者。銅山王とも呼ばれた。京都岡崎生まれの次男坊。幼少の頃の名前は木村巳之助という。生家の木村家は醸酒業を営み、代々庄屋を務めたが、父の代に零落、豆腐屋を営んでいた。幼少より立身出世の願望が強く、18歳で盛岡の伯父のもとに行き、同地の鴻池伊助店に勤務したりした。(手代となる)安政5年(1858)26歳で古河太郎左衛門の養子となり、市兵衛と名乗った。以後、養父の縁で京都井筒屋小野店に勤め、奥州一帯の生糸を買い付けては外人排斥の危険を冒して横浜に送り、同店の生糸取引に手腕をふるった。その功績により38歳で小野宗家より別宅を許され、東京に居を構えて生糸貿易、蚕糸改良、築地製糸場(1871年器械をヨーロッパから輸入し、初めて器械繰りの糸を作る)を開設する一方、阿仁、院内などの鉱山経営も担当し、有能な番頭として活躍した。明治7年(1874)の小野組破綻後は独立創業し、鉱山業に進路を求めた。資本が乏しいため、渋沢栄一の知遇と援助を得て相馬家名義で草倉銅山の経営に着手し、9年には廃山同様であった足尾銅山を買収し、相馬家と共同経営を開始、その後も院内銀山、阿仁銅山などの払い下げを受けた。当初の足尾の経営は苦難の連続だったが、大学出の新進技術者を多数採用して明治17年(1884)の大鉱脈発見で好転し、水力発電所建設による鉱山電化を進め、ベッセマー式精錬法をいち早く導入した。その結果、明治20年代には住友の別子銅山を凌駕し、産出高が日本一の銅山となった。足尾は鉱毒問題に直面したが、市兵衛の死後、古河の事業は多角的発展を遂げ、古河鉱業、古河電工、富士電機製造、横浜護謨などの企業を傘下に持つ古河財閥を
が形成されていった。市兵衛は常に『運・鈍・根』を処世の3大秘訣として信奉していた。その経営活動を見ると、採鉱や精錬技術の近代化には極めて積極的であった反面、伝統的商法に固執して会社形態の採用に反対、自らの独裁的意思決定にもとづく専制主義のもとで産銅一本主義を『戒律』とし、組織とマネジメントの近代化は遅れた。晩年には足尾銅山鉱毒事件の発生などにより、彼の独裁は揺らぎ、古河鉱業(現古河機械金属)事務所が設置され経営方針も変化した。
『院内銀山』より (日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より
・・廃藩後、小野組の経営するところとなったが、同組の破産後、秋田県の所管となった。1875年に工部省の官営鉱山とされ、79年には御雇外国人(ドイツ人5人)技師を招いて西欧の鉱山技術の導入による経営の近代化が進められたが、1885年に古河市兵衛に払い下げられた。古河鉱業会社の経営となってから、産銀額は1891年には3800貫に、94年には4000貫にと飛躍した。

それでは、今回はこれで終了します。
ごきげんよう、さようなら。
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Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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