湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代)

2017-02-22

先回は、十分一の所長宅について、歴代の所長名と初代の所長木村長七が院内銀山に来た当時のお話をご案内いたしました。
今回は、もう少し時代がさがって大正末期に十分一に住んでいた時のことを書かれた人のお話が会誌《院内銀山》に載っているのでそれをご紹介して、当時の様子を知っていただきたいと思います。

まず、以前もご案内しました明治期の十分一の絵図です。
IMG_2828.jpg
この様子を思い描きながら、次の文章をご案内いたします。

大正時代にここで幼少期を過ごした真田淑子氏(筝曲 八橋流宗家)の記述があるので紹介する。(会誌 院内銀山 25号より)

 『父は信州川中五明家の生まれ、東京に出て試みに二三の仕事につくが思うに任せず、真田家の養子に入り、友人のすすめる院内銀山に赴任した。その友人は社長であった。・・・私は(大正2年生まれ)数え年二歳で母と院内銀山に行き、親子三人で暮らした。はじめ十分一の一番鉱山寄りの三間位の小さな家であったが、間もなく大きな家が空いたからと、二階と庭と広い瀬戸のある家に七歳、小学二年まで住むことになった。』(大正3年から大正9年か)
**ここに書かれている最初に住んだ家は、上の写真の一番奥になると思われる。絵図で見ると7番目の役宅になるのか。次に入った大きな家は、どこの家かわからない。(一枚目の写真にて)この十分一の中のどこかの家であることは間違いないと思うが。

それを更に細かく拡大したものが
絵図2
院内銀山の入り口である『十分一橋を越えると、道路を挟んで右側に古河鉱業の社員の役宅が並んでいます。
絵図3
道路を挟んで右側の一段高くなった石垣の上の建物がこの絵図に描かれている所長宅や三松館や社員の役宅です。

永田さんの話の続きになりますが、
『私の住んでいた広い家は、鉱山に行く道沿いにあった。道の向こうには深い小川が流れ、小川の先に小高く、よく耕された果物畑があった。柿、桃、ぐみ、桑の実、山苺、杏もあったかもしれない。夏の探検の第一は、あけびさがしであった。口のパッと割れたその実はおいしかった。わらびやぜんまいには目もくれなかったが、きのこ狩りには皆笊を持って競い立った。・・・
 その道の下側に、道に沿って社長の邸があった。高い石垣の上は洋館で、その家の子も仲間だったので南向きの広い二階部屋には畳が敷いてあって、そこのお母さんが円テーブルで一同にご馳走してくれた。しかしその高い石垣には春になると、白い筒のようなものが沢山でていた。「蛇のぬけ殻だよ」と聞いてから私はその家に行くのをやめた。』
 **この中に書かれている社長は、所長と思われる。そのことを書いたものが会誌にあり、要約すると《大正7年までの鉱山所長近藤和作の長女一子さん(明治41年生)は異人館で生まれ、白銀小学校二年生の時に父の本社勤務により転校し「その当時のことがとても懐かしい」と後日語った。大正9年坑道閉鎖による鉱山縮小後、異人館が平鹿郡植田銀行(十文字町)本店建物として売られたというがはっきりした事は分らない》

『当時の子供たちの遊び場は、山や川いたる所であった。また、常の溜まり場は十分一の橋のつき当りの「何でも屋」であった。』
**ここにある溜まり場の「なんでも屋」は十分一橋を渡る前の方と思われる。?
≪小学校時代の想い出≫
 「冬の学校の往来が何より印象深い。大将(上級生)が先に立ち早朝に鉱山入りした人々の足跡をたどって皆を引率する。一列になり、私は中頃に入れてもらい、わき目もふらずに歩く。往路は左側が崖が多かったので、なるべく山よりを歩く。鉱山に行く途中に小学校があった。(当時の白銀小学校)その道側は石積みで、そんなに高くはなかった。私に記憶では、大きな校舎、広い教室で六年生から一年生までが縦に並び、一人の先生が教えてくれた。音楽教室もあって専門の先生が教えてくれたらしい。
 社員の社宅は別な川に沿った高台に数十軒並んでいたが、住人は次第に減っていった。精錬所は例の山向こうにあり、異人館に技師がいて(ドイツ人)指導していたと言うが、私がいた当時は日本人の所長、技師長が住む事務所であったようだが、一度父に連れられて見に行ったことを覚えている。
 各地から集まって来た社員や従来から住んでいる人々で銀山町は構成されていた。病院があり、白衣の医師と看護婦が当時としては珍しいサンルームのような硝子張りの広い部屋で診察しておられた。その隣は宿屋でその中には入ってみなかったが、広く裕福そうな感じがした。百貸店のような「なんでも屋」があり、住民には最も有効な存在であった。」

明治期の十分一1
さらに拡大すると明治期の十分一拡大
この写真に在るように異人館が写っているので、明治期から大正の初めころの写真と思われます。

最後に、永田さんが、平成10年に院内銀山跡を訪れた時の様子も書かれているので紹介します。
「やがて想い出にある橋を渡った。昔日、立派な大橋と思っていたその橋は、これがと思うほど小さく傷んで、土さえこぼれていた。十分一のかつての生活域に足を踏み入れた。二百軒もあった家は杉林に変わっていたし、「よろず屋」も姿を消していた。崖下に二軒の家がひっそりと残っていた。
 十分一橋を渡った。子供心に一番親しんだ遊び場である。この道の両側にあった家も、宿屋も病院もなくなっていた。ただ一軒私達の住んでいた所に、新しく建てなおされた家屋があった。須川徳蔵さん・けん子さん夫婦である。須川さんは古河林業(現立石林業)に勤務し、鉱山一帯の杉林の管理をしているという。
 昔の所長の家は格段に高い石垣の上にあった。ところが実際目前にした石垣はずいぶん低く崩れており、昔を知らない人には、想像すべくもなく、無論かつての立派な洋館などは崩れたままで雑草の中にあった。」
**この時石垣が低く感じたのは、昔の道路よりも今の道路はかさ上げされていたため、そう思えたのです。新しく造られた国道108号線に高さを合わせたためにこうなりました。
**また、ここの中に書かれている≪立派な洋館≫とは異人館のことと思われるが、永田さんの文章から見ると、平成10年頃には崩れたまま雑草の中にあった、とあるので≪異人館が平鹿町に移されたというのはどうなのか、疑問に思います。

今回は、この辺で終了します。
ごきげんよう、さようなら。


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世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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