湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代)

2017-02-27

先回は十分一の様子を、大正時代の初めの頃を書いたものを紹介しました。
当然今では考えられない様子でした。
今回は、それよりも数年後に分教場に通っていた堀松武一氏が書かれた文章をご紹介しま
す。

十分一橋から
まずは、以前にもご案内した明治から大正期にかけての十分一の様子を写した写真です。
手前に橋がありますが、十分一橋です。右側の少し高台になっている所にある手前の建物が分教場です。
その奥の2階建ての立派な洋館が所長宅(旧異人館)です。
左側にある家々が明治の初めころは古河鉱業の役宅でしたが、明治末期から大正期にかけては所員の合宿所(クラブ)や医局室に社宅、主任社宅に変わっています。また、一部個人の家も出てきます。


そうした様子を、堀松武一氏が書かれた文章をご紹介します。

私のふるさと「院内銀山」 会誌 「院内銀山」第18号より
    東京学芸大学名誉教授  堀松武一


 私は大正7年(1918)、秋田県雄勝郡院内銀山町西三番六十番地に生まれた。私の生家は現在の三番共葬墓地の真前で、木造二階建て黒塗りの大きな家であった。当時の風景としては今私の脳裡に残るのは、傾きかけた墓石が累々として荒涼たる墓地のみである。
 私の小学校入学は大正14年(1925)、この時の学校は「雄勝郡院内尋常高等小学校白銀分教場」で、現在の十分一番所跡にあった洋風平屋建ての小さな校舎であった。(旧三松館)校舎は教員室、教室、雨天体操場各一で、用務員一家が住む小さな住宅が附設されていた。私が4年生の時、先生は落合に住む「渡部養助先生」ただ一人で年令は多分五十歳代、いつも黒い詰襟の洋服を着ていた。一つの教室に一年生から四年生まで合計二十人あまりを収容する、いわゆる複式学級であった。(当時の銀山は衰退の一途をたどり、人口減少が著しかった)私の記憶によれば、複式学級での授業は独特で、渡部先生はまず一年生から始める。その間ほかの学年は待っているのである。・・・二年生は掛け算九九を勉強していた。渡部先生が唱える声に合わせ、二年生全員が大きな声で、まるで坊さんがお経を唱えるようにして暗記してしまうのである。この九九を唱える声は「十分一の村」全体にひびき渡った。私の父は山の上で仕事をしながら、盆地の底にある分教場からかすかにきこえてくる学び舎の声に耳を傾けたそうである。
 五年生の時から院内駅のそばの本校「院内尋常高等小学校」に通った。本校は「口」の字型の木造総二階建ての大きな校舎で、その前庭は広く、見事な桜並木があったのを覚えている。昭和5年私は六年生になり、内町居住の佐藤七郎先生が担任だった。


明治期の十分一1

今回は少し短いですが、これで終了します。
ごきげんよう、さようなら。
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