湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代)

2017-03-04

先回は堀松武一さんの書かれた分教場での様子をご案内いたしました。
今回は、それより約10年近くあとの昭和6年から昭和9年までの4年間を十分一で過ごした永田典子氏(佐々木恭蔵氏長女)の書かれた十分一の様子をご案内いたします。
昭和に入っているので、銀山での鉱石を採掘する事業はなくなり、残鉱堀でわずかに事業を行っていました。
そのため、この当時の十分一の様子を見ると、明治期の様子とはかなり変わっていました。
昭和10年当時の十分一の様子を書いたものがあるのでそれをまず紹介します。
昭和期の十分一附近図
この図を見ると分教場(大正11年から昭和10年3月まで)の記載はなくなり、社員社宅になっています。また、所長宅も無くなり、主任社宅が、道路の反対側に移っています。また、医局室や所員合宿所(クラブ)などが書かれています。
道路も旧道が無くなり、今の新しい道になっています。


それでは、この当時に十分一に住んでいた永田典子氏の書かれた十分一の様子をご案内いたします。

十分一の人々と橋の話   永田典子 会誌 院内銀山 第31号

 「のりちゃん、あそぼ!」。あ、昭二郎さんだ。昭二郎さんは、私達親子が住む銀山十分一分教場の前、右斜め向かいの平野家の息子だ。昨日、二人で作った雪玉がどれだけ氷ったかを見にゆかねば・・・。私と昭二郎さんは平野家の敷地内にあるポンプ井戸の端(はた)を見に行く。そして、二つの雪玉が氷って透き通っているのを確かめ歓声を上げる。私の胸中に生き続けている平野昭二郎さんは、何時でも茶色の厚手のセーターを着ている。そして、そのセーターの袖口はカビカビに固まっている。寒くて寒くて、と昭二郎さんが水洟(みずっぱな)をこするためだ。
 やがて二人とも、分教場に入学することになった。買って貰ったランドセルがうれしくて、雪が降る日でもランドセルを背負って遊ぶ。つっかけるだけの短いスキーを履いて、ランドセルを背負って遊んだ。ところで、優しそうだった昭二郎さんのお姉さんの米子さんは今、どこにいらっしゃるのだろうか。
 分教場の左斜め向いに、納豆やマッチを売る軒の低い店があった。水野のおばあちゃんの店で、朝ごはんの前によく納豆を買いに行かされた。お金は払わなかったから多分付けだったのだろう。
 分教場の当直室。六畳ふた間続きが私達の住む所で、分教場の玄関を入って左手洋間が職員室だった。といっても職員はうちの父ひとりで、一年から四年までの複式学級だった。弟の良(まこと)はここで生まれた。昭和8年1月4日未明。私は寝ている布団ごと廊下を横切って職員室まで運ばれた。お産が始ったのだ。職員室のだるまストーブが赤々と燃え、その上の大鍋には湯が沸いていた。「この家はドイツ人技師が作った建物で羽目板が三重になっているから寒くないのだ」というのが父の口癖だった。
 前記、水野商店の脇から架かる橋があり、渡り切った所に斎藤重次郎商店があり、そこの光子さんは私より一級上で、父が「ミツコ、ミツコ」と言って可愛がっていた人だ。お姉さんの温(あつ)さんもお母さんも、私の弟の良をめんこがってくださった。弟もそこの一家が好きで、行ったら最後、帰りたがらない。売り物の酒粕を食べて、店の売り棚の陰で眠っていたことは、何時までも私と母の一つ話となっている。
 小正月には斎藤商店に沿って左に登った道の崖づらに、水神様を祀る雪の洞が作られ、私達子供は揺らぐろうそくの明かりの下で、親たちが持たせてくれた餅やお菓子を食べて楽しんだ。夜、外出しない私にとって、この行事は待ち遠しいもののひとつだった。その日の夕方になると、「店に寄って三本白一斤と言えば分るから、それを貰って持って行きなさい」と、母が私に言う言葉も例年同じだった。私は重次郎店に寄って、おばさんが「ハイ」と言って渡してくれた三本白を手に雪洞の祭りの仲間に入れて貰うのだった。(三本白-当時の白砂糖の中で上等なもの)
 夏、重治郎店の脇をのぼり、松ノ木峠に続く道をやや暫く辿った所に堀松家はあった。そこのかつ子さんは私より一つ下できれいな女の子だった。カッコちゃん!と私は叫んでいた。その堀松家でいただく夕ごはん、又は昼ごはんは美味しかった。使用人も混えての大勢の食事も、私を刺激するものであったが、カッコちゃんのお祖母様の奨め上手もあった。私の母は堀松のお祖母様に会うと言われたそうだ。「のりちゃん、ごはんを食べない、食べないっていって奥さんは言うけど、ウチに来たら何杯も食べるえ―、何も心配いらんえ―」と。このお祖母様はお実家(さと)がこの近くでないので、語尾にえ―を付けてお話をなさるのだ、と母は言っていた。
 十分一には私の心を死ぬまで引き付ける橋がある。その名は「十分一橋」。所在は「秋田県雄勝郡院内町院内銀山町字十分一」だ。四歳から七歳まで此処で育った私は、西馬音内から時々やって来る祖母をこの十分一橋まで出て待っていたものだ。徒歩で来る祖母の姿が山かげから現れるや否や、駆けて行って抱きつくが常だった。但し、これがこの橋を忘れられない理由ではない。私は落ちたのである。どこから?って、この橋の欄干の隙間の隙間から身を乗り出して下の滝を覗いている時・・。何故?どうして?と人は聞くが、私の方が聞きたいくらい。その理由は分らない。五才の体は小さかったのか、橋桁の隙間、30㎝に満たぬ所をわざわざくぐって落ちて行ったらしい。幸いに滝の縁に落ちていたので助かったとは、周囲の大人達の話で分かったが、気が付いたら寝かされて、額には濡れタオルが乗っていた。そんな私を山女釣りから慌てて帰ってきたという父親が心配そうに覗いていた。やはり祖母を迎えに出ていた時のことだった。
 橋の傍には根田さん家があり、院内の町長をやっていらした。この根田さんから二十年後の或る日手紙を頂いた。何でも新聞に女学生の作文が載っていて、この名前が私だったとのこと、若しやと思い、湯沢の女学校に問い合わせ確かめたとのこと。昭和16年秋だった。東京からわざわざいらした根田さんは、私達親子を湯沢の藤田旅館に招んでご馳走してくださった。父が出征中の留守家族を案じてくださったのだった。
 ○佐々木恭蔵氏長女、 ○白銀分教場・・大正11年、白銀小学校は院内小学校に統合され、十分一に白銀分教場解説(四年生までの複式一学級)永田さん入学の昭和9年の児童数27名、同10年4月より本校に統合


それでは、これで終了します。
ごきげんよう、さようなら。
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世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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