湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代)

2017-03-19

古河時代の十分一の様子を何回かに分けてご案内してきましたが、そろそろ終盤になります。
今回は、院内銀山史跡保存顕彰会の顧問をされていた藤原耕作さん(長倉の立石林業院内支所の所長)が
会誌 院内銀山 第19号(平成6年発行)の中に寄稿された
『顕彰会誕生の経緯について』の中に十分一(この場所が院内銀山に人が住まなくなった最後の場所)の様子が書かれているのでここにその様子を紹介します。


顕彰会誕生の経緯について   顧問  藤原 耕作 より
(会誌 院内銀山 第19号平成6年発行)

  この文章の中に、院内銀山に最後まで居た家族が出て行った年の記述があるので、抜き出します。
 その後、院内銀山は、時代の変遷と共に盛衰お繰り返し、明治天皇のご臨幸を仰いだ栄誉ある鉱山も、事業の不採算には勝てず、昭和29年に350年の歴史に終止符が打たれたのである。
 私は昭和31年に、銀山全域の山林を経営する林業会社に勤務し、銀山町の住民となり、金山神社の祭典や、昭和25年の神社大修理などに鉱山の人々と共に、参画してきた。
 昭和29年鉱山閉鎖と共に、当時の鉱山従業員三十人ばかりとその家族が一斉に山を去り、銀山町は林業の関係者二十戸足らずの小集落になってしまった。
 その後子女の通学、生活物資の調達不便などから、この地を去る者が続出し、昭和43年をもって銀山町の住民は皆無となり、林業会社の事務所や製材工場等職場のある上院内長倉地区に移転した金山神社の氏子は、私を含む僅か五名となったのである。

**ここに書かれている昭和29年鉱山閉鎖とありますが、古河鉱業が完全に院内銀山から撤退したことであり、鉱山自体の閉山は大正9年の坑道閉鎖にあります。
**ここに書かれている昭和43年をもって銀山町の林業関係者も長倉に移転し、銀山町の住民は皆無となったとありますが、
ある長老の話では、十分一に最後まで残っていたのは、林業関係の千葉さんという家で、昭和48年に移転したそうです。
誰も住まなくなった後、院内銀山に一人して住んでいた人がいました。その人の名は、《永島房雄》師です。
この人は、幼少の頃院内銀山町に住んでいて、小学校2年まで住んでいたそうです。
年老いてから、幼少のころ住んだ院内銀山のことが忘れ難く、院内銀山に一人移り住んできました。
初めは十分一の異人館向かいにあった社宅に住んでいたとのことですが、その後正楽寺跡に『無宗山報恩寺』を建てすんだのが昭和55年と言われます。平成8年に亡くなるまで、住んでいました。(冬の間は自宅に戻りました)
**現在の院内銀山跡地を管理しているのは『立石林業』さんです。
昭和の十分一橋1
この写真は、昭和29年に写されたもので、十分一橋の上流側からのものです。
十分一橋を越えて左側にまだ何軒もの家が写っています。
奥に見える山は日景森山で大切坑の裏山になります。山の中腹まで植林されてなく、おそらく果樹畑になっていたと思います。
(以前紹介した真田淑子さんの書かれた望郷の院内銀山 第25号にあり)

昭和の十分一地区
この写真は昭和40年年代の十分一の様子。此の時には数軒しか残っていない。
おそらく、最後まで残った千葉さんの家がこの中にあると思います。
現在の十分一
この写真は、また横を向いてしまいましたが、平成に入ってからのもので、全く家は在りません。
空き地になっている部分が、十分一橋を渡って左側の場所です。今でもここは平場になっています


今回はここで終了します。次回は少し寄り道をして
院内銀山のことを語る上でどうしても忘れる事の出来ない人である
『永島房雄』師について、ご案内します。
ごきげんよう、さようなら。
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