湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
ゆざわジオパークのいろいろな情報や事務局の日々の感想をつづるブログです。

ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代)

2017-03-24

今回はちょっと寄り道をいたします。
先回の終わりにPRしていました院内銀山の最後の住人であった永島さんについてご案内いたします。
永島さんについて、書かれた記述が会誌 院内銀山にあるのでそのご案内をいたします。

「永島房雄師を偲ぶ」 渡部和男記 会誌 院内銀山 第22号より
                                          (会誌発行平成9年)

 永島房雄師は、長い間院内銀山跡整備と無縁供養に尽されて来たが、昨年(平成8年)10月14日突然倒れ、17日朝永眠された。満80歳である。「私は銀山での無縁供養を生きがいとしているので、銀山で死ぬことは本望である」と、話されたのを聞いたことがあるが、まさに大往生と言ってもよかろうと思われる。
 師は銀山生まれではないが、幼くして家庭の事情で両親と別れ、銀山に住んでいた祖母菅ツルさんの下で育ち、小学校二年の時銀山から移ったという。
大正11年院内小学校に併合直前の、白銀小学校(西三番)に通ったことになる。
 ツルさんは「カンタロウバッパ」と呼ばれたとのこと、幕末期金名子(かなこ・組頭)金沢勘太郎(墓共葬墓地)の娘であろう。師が育った家は、銀山川沿いの、御幸坑前から御膳水への途中に、西光寺に向かって建っていたと、懐かしげに話されたことがあった。菅家墓地(共葬墓地)には、師が昭和56年に建てたツルさん(昭和3年没)・母乳井はなさん(昭和54年没)の墓がある。
 成人して愛知県警察官となり小牧市に居を構え、退職後数年民間会社に勤めたが、院内銀山を忘れがたく、いつかは銀山に戻って無縁墓を供養しながら、報恩したいと考えていたとのこと。そして昭和47年前後、院内を訪れて関係者に墓地整備のことを相談し、49年には共葬墓地に観音像建立、50年9月に開眼供養を行っている。「銀山顕彰会」は昭和51年に発会しているが、永島さんの銀山への熱い思いが、創立の一つのきっかけになったともいう。
 師は、銀山無縁供養のため僧になる決意を抱き、能登総持寺祖院で修業得度、法号を房雄を「ほうゆう」と読み替えた。銀山に住むようになったのは数年前になると話されたことがあるが、師の知人の話では、正楽寺跡坊舎「無宗山報恩寺」に住む様になったのは昭和55年秋からでその前は十分一異人館跡向の社宅(空家になっていたと思われる)に住んでいたとの事。(昭和48年まで住んでいた林業関係者千葉さんが最後)昭和50年代の初めか?
 報恩寺では、毎年4月末か5月始めに来山し、11月始めに帰省するまでの半年間、電気・ガス・水道のない所で仙人のような孤独の生活であった。冬も通していたい気持ちであったらしいが、家族の反対で実現しなかったようである。「私は粗衣粗食に慣れているから、この様な生活は少しも苦にならない」と話された事がある。
 「無宗山」の山号と石柱「世界は一つ萬教は一つの真理に帰一する」の通り、師の活動は宗派に囚われることなかった。堂脇に並べている首の欠けている多くの地蔵、無縁供養塔、キリシタン殉教碑、遊女供養堂、坑内火災死者供養地蔵像などを見ると、永島さんのそのような思いが強く感じられる。師は心から銀山を愛した稀なる誠実・無私の人であった。

ここに書かれている様に今の院内銀山が在るのはこの人の力が大きかったと思います。

昭和の十分一地区
この写真は、おそらく昭和40年代頃の十分一のもので、もしかすると永島さんが最初に住んでいた家が写っているかもしれません。
2015_11150045.jpg
こちらは、渡部和男氏の出した写真集に掲載された写真で、永島さんが院内銀山で亡くなるまで住んでいた『無宗山報恩寺』とその周辺の様子です。

次回も永島さんについてご案内いたします。


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世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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