湯沢市ジオパーク推進協議会は、秋田県湯沢市の「世界ジオパーク」認定登録に向けて、日々奮戦中です。
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ミラーマン 院内銀山を行く 明治以降の院内銀山(古河時代) 長倉地区

2017-12-16

ミラーマン 院内銀山を行く も数年かけてご案内してきましたが、
いよいよ大詰めになってきました。
今回は、長倉・落合地区についてご案内します。
ここは、明治期以降院内銀山の中心地になった場所です。
今までご案内してきた選鉱場や精錬所、これから案内する変電所などがあった場所です。


長倉・落合地区を見てみると
IMG_21354.jpg
この上空から写したものを見てわかるように
院内の町のから山際に入った場所にあり、院内銀山の入口に当ります。
赤丸が長倉で、黄色丸が落合になります。
左側に院内銀山跡地があります。
まず、長倉・落合地区について書かれているものを紹介します。


銀山を歩く  (院内銀山歴史散歩  渡部和男著より)
 
江戸時代の院内銀山は十分一番所より奥地であったが、明治期に外人技師来山による近代経営が始るとともに、その土地では狭いため、下手の長倉・落合集落に事務所・作業所・工場・長屋が建てられた。
《長倉村》
 落合地区は銀山発見初期から長倉村と呼ばれ、享保15年(1730)岡見知愛編『享保郡邑(ぐんゆう)記』に「家員十一軒」、文化12年(1815)淀川盛品編『秋田風土記』には、「慶長・寛文の間銀山盛んに出銀の時、山中扶持米を収むるの土蔵、依って村の名長蔵と称す。又十分一番所有りたるが今なし」とあり、『政景日記』・『銀山記』・『養安日記』にも頻繁に登場する土地である。しかし、江戸期は銀山地内には含まれてはいなかった。落合には明治12年初期精練所、近くに坑夫長屋が建てられた。精錬所は明治18年移動したが、長屋は銀山閉山後も地元民の住居となり、昭和30年代までは三家族が住み、今は無人の一棟が残っている。
 落合では銀山川と南沢川が合流して院内川となるが、落合は南沢川から下す薪・木材の陸揚げ場所であった。「天保二年(1831)久保田表への伺書」(『銀山の町』)に、南沢からの薪の川下しと運搬の記事があり、『養安日記』弘化二年(1845)にも、「御詰合様南沢木流しへ御出下し置かれ候」(三月十六日)とある。
 幕末期にも銀山と長倉村との往来は頻繁であった。『養安日記』には多くの長倉村記事がある。「天気好く候間嫁は愛宕山へ参詣、手元にては長倉迄年始ながら罷り越し、長倉田より田にし少々ひろい持たせ遣わし候」(嘉永四・二・二四)、「長倉へすぐり切相談に罷り越し申し候。時節後にて皮捨り候間来春の事に致し候」(同年九・二一)。南沢川・銀山川合流点から七百m程下流に湾曲した急流があり、地元では「岩の淵」と呼んでいるが、銀山詰合たちが院内愛宕山参詣の帰り、岩渕を見物しており(天保七・七・一七)、当時は水量も多く名所であったものと思われる。「手廻ども昼より院内岩瀬へ遊参罷り越し候」(天保一一・六・二五)の岩瀬も岩の渕のことで、「小貫様長倉辺川干に御出成し置かれ候。泰安御供仰せ付けられ罷り越し候」(天保一四・五・一四)、岩瀬辺りで魚とりをした記事であろう。『日記』には長倉村住人は数多く登場するが、清兵衛・勘兵衛・伝兵衛・市郎兵衛・三郎兵衛等の子孫は判明している。江戸時代末期の様子が書かれています。院内銀山と深い関係がありました。
現在の長倉・落合地区の様子を紹介します。
長倉・落合
右と左の分かれて小さな集落があります。右側が、長倉、左側が落合です。
長倉集落
こちらは、長倉集落
落合3
こちらが落合集落です。
どちらも小さな集落で、ひっそりとした山村です。
昔の面影はほとんどありません。

今回はこれで終了します。
ごきげんようさようなら。
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Author:湯沢市ジオパーク推進協議会事務局
世界ジオパーク認定登録を目指して日々活動している「湯沢市ジオパーク推進協議会」事務局です。

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