ミラーマン 院内銀山記を書く
2014-07-11

ミラーマンです。また順番が回ってきてしまいました。
昨日は、栗原市のジオパーク推進協議会のガイド養成講座で、ガイドの仕方についての講義をしてきました。
懇親会で飲みすぎて、今日は調子が今一です。午前中は、知事との話し合いを見学してきました。聴衆は身内ばかりでした。
さて、本題に入ります。先回は院内の初代の支配者である、箭田野氏について書きましたが、今回は、大山氏について少し書きたいと思います。
上の写真は、信翁院にある”大山氏のお墓です。”手入れがあまりされていないので、草が生えています。
大山若狭鎮将になる
大山氏が院内を治めるようになったのは、延宝8年(1680)である。箭田野八郎左エ門に代わり大山因幡義武がなりました。大山氏は延宝8年6月4日に院内にやってきました。以後幕末まで勤めました。《1680年ころには、将軍綱吉が生類憐みの令を出した(1685年)頃です。》
大山氏を見てみると、祖先は佐竹家第11代義篤の4番目の子、佐京亮義孝と称した。常陸の国那河郡大山に住んでいたので大山を名乗った。康応元年(1389)である。(南北朝の時代)
大山因幡は佐竹家に縁のある家柄で、扇の紋の幕をいただいており、食禄は六百二十五石七斗九合、席格は御引渡です。(席格引渡は藩主の御前に出て引渡御膳で食事の出来る家柄、一門に次ぐ家格。大山家は一番座、箭田野家は二番座でした。
もし、院内に行く機会があれば、大山家のお墓に手を合わせてください。 それでは、さようなら。