ミラーマン 院内銀山記について
2014-07-19
7月18日{金) 稲川生涯学習センターと皆瀬生涯学習センター主催のふるさとトレッキングで秋田駒ケ岳にスタッフとして参加してきました。昨日はあいにくの天気でしたが、何とか高山植物を堪能してきました。代表的な花の”コマクサ””ニッコウキスゲ”が見ごろで参加者の皆さんも大変喜んでいました。
さて、本題の院内銀山記の中の『渋江内膳政光の供養』について書きます。
院内銀山と渋江内膳政光については、切っても切れない関係にあります。それは院内銀山が発見された当初、村山宋兵衛ら四人に山元証文を渡すことになったが、その陰には渋江内膳政の計らいがあったので、院内銀山を開発することが出来たと言われています。
先に慶長19年(1624年)大阪冬の陣の時、11月26日、今福の合戦で敵の流れ弾にあって渋江内膳政光は亡くなってしまった。この時院内銀山の山師たちは協議して、院内銀山の開発に貢献のあった御人なので供養法会を行ったと言われている。
山師36人、掘り子180人がことごとく集まって法会を営んだ。法名『浄珊政光公』とした。 院内銀山発見者4人の一人である”渡辺勝左衛門が院内銀山の地に渋江内膳政光の菩提寺として、お寺を建立した。そのお寺は”東安山誓願寺”と号した。げんざいその誓願寺は院内銀山の地から離れて院内の馬場という場所に立っています。
**渋江内膳政光という人は、下野国の小山秀綱の家臣であった荒川秀景の子として生まれた。豊臣秀吉の小田原攻めの時小山氏とともに敗れてしまい、浪人となってします。しかし、才能に優れていたので佐竹氏の家臣となることが出来た。才能が開花して家老にまでなった。がおしいかな”大阪冬の陣”で敵の流れ弾に当たってしまい、残念ながら若くして亡くなってしまった。おしいかな。おしいかな、。
さて、本題の院内銀山記の中の『渋江内膳政光の供養』について書きます。
院内銀山と渋江内膳政光については、切っても切れない関係にあります。それは院内銀山が発見された当初、村山宋兵衛ら四人に山元証文を渡すことになったが、その陰には渋江内膳政の計らいがあったので、院内銀山を開発することが出来たと言われています。
先に慶長19年(1624年)大阪冬の陣の時、11月26日、今福の合戦で敵の流れ弾にあって渋江内膳政光は亡くなってしまった。この時院内銀山の山師たちは協議して、院内銀山の開発に貢献のあった御人なので供養法会を行ったと言われている。
山師36人、掘り子180人がことごとく集まって法会を営んだ。法名『浄珊政光公』とした。 院内銀山発見者4人の一人である”渡辺勝左衛門が院内銀山の地に渋江内膳政光の菩提寺として、お寺を建立した。そのお寺は”東安山誓願寺”と号した。げんざいその誓願寺は院内銀山の地から離れて院内の馬場という場所に立っています。
**渋江内膳政光という人は、下野国の小山秀綱の家臣であった荒川秀景の子として生まれた。豊臣秀吉の小田原攻めの時小山氏とともに敗れてしまい、浪人となってします。しかし、才能に優れていたので佐竹氏の家臣となることが出来た。才能が開花して家老にまでなった。がおしいかな”大阪冬の陣”で敵の流れ弾に当たってしまい、残念ながら若くして亡くなってしまった。おしいかな。おしいかな、。