ミラーマン 院内銀山を行く 神社と仏閣編
2016-07-31
今回は、先回に引き続き、院内銀山のお寺についてご案内いたします。
院内銀山における神社と寺院 会誌「院内銀山」第36号 渡部和男著より
●宝泉寺・・
絵図では宝泉寺名があるのは「岡絵図」の宝泉寺跡のみで、位置は山神宮稲荷堂背後、現在は杉林になっている。
宝泉寺は山神宮別当寺院である。平安期に始った神仏習合において、大きな神社には寺院が併設され、別当と称されて格はむしろ寺院が上で、祈祷などは別当僧が行う事が多かった。なお、別当寺院は天台宗・真言宗・修験宗のいずれかに属していた。
宝泉寺がいつ廃寺になったかは不明であるが、安永7年(1778)奉納の山神宮奥殿祈祷札に、「別当大仙山宝泉寺」とあるのでこの頃はまだ建物があったと言える。しかし別当僧はおらず、祈祷は「遷宮導師南學院掎琴(いきん)法師」と下院内修験が行っている。この年代以降は銀山が急激に衰えたので、解体されたものであろう。

●延命寺・・
江戸期位置は、山神宮への裏道から分かれて、御台所への道の途中にあり、現在は杉林になっているが、寺のものと思われる井戸が残っている。
「院内愛宕神社由緒」に、延命寺は宝永6年(1709)愛宕神社別当長安寺に併合されたとあるが、「千秋文庫」「天保絵図」に表示されているのは、建物だけが残ったためで、無住ではあったが、「養安日記」に、空海の命日3月21日弘法講参詣記事が明治2年まである。「岡絵図」には延命寺跡とあるので幕末に解体されたが、講は続けられていたのであろう。
●本行寺・・
本行寺は誓願寺とともに、初期銀山のうち現存する寺である。「雄勝町史」に、正保2年(1645)寺沢村(横堀)から銀山かへ移転とあるが、「銀山記」(1636編)記述後となり、あり得ない。同書に天和3年(1683)院内中馬場に移転、正徳元年(1710)横堀現在地に移転とある。銀山での位置は、白銀小学校跡上手高台に、建物の礎石が数個あり、その前に、元治元年(1864)施主9名による「何妙法蓮華経」石碑があるが、跡地に信者が建立したものであろう。

現在、このような石碑が立っています。

平場があり、ここにお寺があったと思われます。
今回でお寺については終了します。
次回はお堂についてご案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。
院内銀山における神社と寺院 会誌「院内銀山」第36号 渡部和男著より
●宝泉寺・・
絵図では宝泉寺名があるのは「岡絵図」の宝泉寺跡のみで、位置は山神宮稲荷堂背後、現在は杉林になっている。
宝泉寺は山神宮別当寺院である。平安期に始った神仏習合において、大きな神社には寺院が併設され、別当と称されて格はむしろ寺院が上で、祈祷などは別当僧が行う事が多かった。なお、別当寺院は天台宗・真言宗・修験宗のいずれかに属していた。
宝泉寺がいつ廃寺になったかは不明であるが、安永7年(1778)奉納の山神宮奥殿祈祷札に、「別当大仙山宝泉寺」とあるのでこの頃はまだ建物があったと言える。しかし別当僧はおらず、祈祷は「遷宮導師南學院掎琴(いきん)法師」と下院内修験が行っている。この年代以降は銀山が急激に衰えたので、解体されたものであろう。

●延命寺・・
江戸期位置は、山神宮への裏道から分かれて、御台所への道の途中にあり、現在は杉林になっているが、寺のものと思われる井戸が残っている。
「院内愛宕神社由緒」に、延命寺は宝永6年(1709)愛宕神社別当長安寺に併合されたとあるが、「千秋文庫」「天保絵図」に表示されているのは、建物だけが残ったためで、無住ではあったが、「養安日記」に、空海の命日3月21日弘法講参詣記事が明治2年まである。「岡絵図」には延命寺跡とあるので幕末に解体されたが、講は続けられていたのであろう。

●本行寺・・
本行寺は誓願寺とともに、初期銀山のうち現存する寺である。「雄勝町史」に、正保2年(1645)寺沢村(横堀)から銀山かへ移転とあるが、「銀山記」(1636編)記述後となり、あり得ない。同書に天和3年(1683)院内中馬場に移転、正徳元年(1710)横堀現在地に移転とある。銀山での位置は、白銀小学校跡上手高台に、建物の礎石が数個あり、その前に、元治元年(1864)施主9名による「何妙法蓮華経」石碑があるが、跡地に信者が建立したものであろう。


現在、このような石碑が立っています。

平場があり、ここにお寺があったと思われます。
今回でお寺については終了します。
次回はお堂についてご案内いたします。
ごきげんよう、さようなら。