10年前の「今日」
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皆さん、こんにちは。
イトケンです。
ブログの更新がすっかり止まってしまって申し訳ないです。
当協議会のツイッターやfacebookはなるべく更新していますので、そちらをご覧いただければと思います。
なるべくブログも更新できるように頑張ります…。
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※ここからの内容は専門員である私イトケンの個人的な考えですので、この考えが当協議会の総意ではないことをご了承ください。
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今日は3月11日ですね。
この日が近づくにつれ、様々なメディアで10年前の「今日」について語られることが増えてきました。
中には思い出したくない人もいると思うので、一斉に取り上げるのはどうなのかなと個人的には思っています。
ただ、我々人間にとって10年というのは、1つの節目と捉えることもできますので、仕方がないのかなと思う部分もあります。
難しいですね…。
さて、そんな今日という日にどんなテーマで書こうか迷ったのですが、今回は私の生まれ故郷について、お話ししたいと思います。
宜しければ、最後までお付き合い下さい。
私の実家は、千葉県旭市というところです。
都道府県の立地的には東京の隣なのに、都内に出るまで電車で約2時間かかる場所です。
湯沢から秋田市に出るよりも時間がかかりますね(汗)。
そんな場所ですが、メディアによっては「忘れられた被災地」とも呼ばれます。
なぜか。
津波が襲い、14名の方が亡くなってしまったのです。
その高さは、7.6メートル(※1)。
地震発生から約2時間半後のことでした。
この津波で14名の方が亡くなり、現在も2名の方が見つかっていません。
幸い、自分の家族は元気で、実家も問題ありませんでしたが、津波を受けた沿岸部は、
全壊した家屋もたくさんありました。
現在は以前の堤防(高さ4メートルほど)よりも高い防潮堤が新設され、より安全にはなったかと思いますが、東北地方の太平洋側と同じく、海が全く見えなくなってしまいました。

写真1:海岸沿いの道路から見た防潮堤。以前はもっと海が見えたのですが・・・。

写真2:防潮堤の上には自転車道が整備され、一番高い場所はさらにその上になります。

写真3:防潮堤のてっぺんから見た太平洋の様子。
と、まるでしっかりと体験をしたように書いていますが、実は10年前の「今日」、私は日本にいませんでした。
当時、アフリカのベナン共和国で青年海外協力隊として活動していた真っ最中だったのです。
そのため、体験談をすることはできません。
ですが、子どもの頃からよく知っている場所が津波により無惨な姿になった様子を、帰国後に見た時の
何とも言えない虚しさは語り尽くせないように思います。

写真4:震災から1年後に飯岡灯台から撮影した飯岡港の様子。この地域を7.6メートルの津波が襲った。
おそらくこのブログを読んでいる多くの方々は、10年前の「今日」、私の生まれ故郷に起こったことをご存知なかったと思います。
正直なところ、それは仕方がないと思います。
それは被害の規模が違うから。
でも、被害の「数字」は違うけど、被害を受けたときに感じた「気持ち」は、みんな近いはずです。
ゆざわは内陸のため、「津波の被害」はありません。
しかし、特別豪雪地帯ゆえに、大雪と地震が重なれば、家屋の倒壊が起こってしまいます。
実際、10年前の「今日」、大雪も相まってゆざわでは多数の家屋倒壊が起こりました。
それもまた、市内の人以外にはほとんど知られていないと思います。
知られていない被害は、きっと無数にあります。
だからこそ、私が、いまできること。
それは被害の「数字」だけに捉われず、可能な限り、人やその気持ちに寄り添うこと。
そう肝に銘じて邁進してきたつもりですが、至らぬ点ばかりです・・・。
また、機会を見つけては、故郷のことを話すようにもしています。
今回のブログもその一環ですね。
今日で、10年が経ちました。
目まぐるしく変わる日々を過ごすうちに、あっという間に月日が経ってしまったように思います。
皆さんはこの10年でどんなことを感じましたか。
機会があれば、教えてくださいね。
長文駄文、失礼いたしました。
イトケン
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参考文献
※1:陸域における津波の痕跡から推定された高さ。
千葉県の「東日本大震災の記録」の33ページより。
(https://www.pref.chiba.lg.jp/bousaik/jishin/kirokusi/documents/1syou.pdf)